2010年12月14日火曜日

ルネサンス研究所

市田良彦さんが「ルネンサンス研究所」というのを始めるということで、そのシンポジウムに行ってきた。
市田さんは「これは設立のための準備討論会」と言っていたが、学者と活動家と出版人が150人以上も集まってしまっていては、今後もしばらくは準備討論会が続くだろう。私も賛同人に名を連ねているのだが、なぜこの研究会に賛同しているのかというと、たんに断らなかったというだけだ。市田さんの説明はいまいちピンとこないものだったし、そもそも初期共産同(系)や川上徹(系)の人たち(60年安保を経験した高齢者たち)が集まったところで、なにができるのかは疑問だ。
自分も賛同しておいて言うのもなんだが、まったくうんざりする。いいかげんにしろと言いたい。


さて、前回の海賊研でテキストにしたクリストファー・ヒルは、イギリスの「ピューリタン革命」が「ブルジョア革命」であったのか否かという議論について書いている。ここで、ヒルは、革命の当事者たちの「自覚された意図を重視することの有効性」を否定している。ヒルは次のように言う。

「「ピューリタン革命」がピューリタンによってピューリタンの目的を達成するために行われた革命という含意をもつように、「ブルジョア革命」がブルジョアジーによって意図された革命という含意を持つとするならば、その用語にとって不幸なことである。あるいは、科学革命になぞらえてみる方がよかろう。なぜなら、その革命から立ち現れてきた科学の基準に照らして最も「非科学的」な多くの人々が、それに貢献してきたからである。ボイルとニュートンは錬金術を真剣に受け止めていたし、ロックとニュートンは千年王国論者だったのだ。」

 科学の始祖ともいうべき人々が、あらかじめ科学者であったはずがない。彼らは錬金術の思考の圏内で、物質に向かって呪文を唱えたり、病人に水銀を飲ませたりということをするなかで、自らの意図を裏切る科学を生み出してしまったのである。そしてここで重大なことは、もし彼らが「錬金術」を信じていなかったならば、彼らの科学的偉業は生み出されなかったかもしれない、ということだ。
 「ルネサンス研究所」に集まった共産主義者たちが、何を想い、何を意図しているかは、私にはあまり関心はない。重要なのは、共産主義思想がまだ充分に否定されていない、という事実である。いつかより根源的な思考の刷新がなされる日まで、共産主義は真剣に検討され続けるだろう。



おまけ