2011年2月2日水曜日

私たちはソマリアを知らない

 先日、『世界まるみえ』なんとかというテレビ番組で、ソマリアの現在の状態を特集していたのだが、残念ながら見逃した(録画した人がいたら見せて)。
 それで思い出したのだが、前回の海賊研究会は、ネグリ/ハートの『〈帝国〉』を読む回だったのだが、〈帝国〉とソマリア海賊について触れることができなかった。現代の新自由主義グローバリゼーション・構造調整政策と第三世界海賊との関係をきちんと説明できれば、仲田くんにも納得してもらえただろう。廣飯くんが言う「ハーバーマスにかわる海賊公共圏の思想」というものも、現代海賊を念頭に置いているはずだ。ソマリア海賊については、以前ある書評で触れたのだが、研究会ではまだちゃんととりあげていない。今後の宿題だ。

 そう。私たちの希望の道は、ソマリアにある。たぶん。
 私たちはソマリアを知らない。真偽の定かでない断片的な情報しかない。いま彼らがやっていることが海賊なのだから、情報が伝わってこないのは当然だ。そして、私たちがソマリアを知らないにも関わらず、それでもどうしようもなく沸き上がってくるこのシンパシーはなんだろう。
 たとえば映画『ブラックホークダウン』を観たとき、これは1993年、クリントン政権がソマリアに軍事介入したときの市街戦を描いた作品だが、ここで、ほとんど丸腰の姿で米兵を追い回すソマリア人たちに、しびれる。涙が出る。映画はとくにソマリア人を美化しているわけではなく、むしろ悪魔的に描いている部分もあるのだが、それでもソマリア人の闘いに喝采を叫んでしまう自分がいる。イスラムの戦士にはまったくシンパシーを感じないし感動もしないが、ソマリア人が米軍と闘う姿は、なぜかとても勇気づけられるのだ。
 ソマリア人が米軍介入を退けたとおもったら、こんどは海賊だ。21世紀の海賊。すごい。
 おそらく民族解放闘争のつぎに現れる新たな枠組み、新自由主義政策下のポスト民族解放闘争のひな形が、ソマリアにあるのではないかと思う。たぶん。