2011年3月4日金曜日

翻訳って疲れる。

明日、3月5日(土)は、海賊研究会ですよー。
あー頭が疲れたよー。すすまなーい。担当分がまだ終わらなーい。
とりあえずいまできてるところまでアップしまーす。
もうちょっと訳してからメーリングリストにも流しまーす。

ピラテユートピアス、第三章。


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第三章 暗殺による民主主義

チュニス、トリポリ、とりわけアルジェは、サレよりもずっと多く研究されてきた。地中海岸の諸国については、膨大な文献が簡単に探し出せるだろうし、それほど時間を費やすこともなく詳細を知ることができるだろう。海賊の歴史書のほとんどは、アルジェについて書いているし、その歴史に多くをさいている。
 サレ(ヨーロッパから遠くあまり注目されなかった)は、単によく知られていなかったのだが、その政治的独立は私たちの興味をひく。そして、サレは私たちがこれから知る必要のある大きな構図の一部なのである。
ブリタニカ百科事典(1953年版)には(このバーバリー海賊の項目ではサレは言及されていないが)こう書かれている。

 「北アフリカ沿岸の海賊勢力は、16世紀に増加し、17世紀には頂点に達し、18世紀全体を通じて徐々に減っていき、19世紀には消滅した。アルジェリアとチュニジアの
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沿岸都市は、1659年以来、トルコ帝国の一部ということになっていたが、実際には、「無政府的」(anarchical)武装集団が支配し、略奪によって暮らしていた。略奪事業は複数の船長に指揮され、彼らは官位を持ち行政組織すら形成した。
船は、資本家によって用意され、船長に指揮された。
パシャ(オスマンの高官)か、それにかわる者ーアーガ(軍司令官)か、デイ(アルジェ大守)か、ベイ(地方長官)ーは、獲得した利益の10%を受け取っていた。(中略)
17世紀まで、海賊たちはガレー船を使っていたが、フランドル人のレネゲイド、サイモン・ダンサーが帆船の利点を教えた。17世紀の前半世紀にアルジェだけで2万人を超える人質を捕獲した。金のある者は身請けして解放されたが、貧しい者は奴隷にされた。
多くの場合、イスラム教への改宗によって自由になることは認められなかった。
19世紀の初め、トリポリタニアは、アメリカ合衆国との戦争によって、海賊行為のつけを払わされる。1815年の講和のあと、イギリスはアルジェリア海賊の鎮圧を試みたが、結局それはフランスがアルジェリアを占領する1830年まで続いた。」
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 イスラム教が「モハンマダニズム」と呼ばれていることに注意しよう。
海賊的「モハンマダンズ」は「多くの場合」改宗を認めなかった。論理的に推論すると、いくつかの場合は認められたということだ。しかし、そんな推論は避けられているし、「モハンマダンズ」と海賊はもっぱら否定的にしか語られない。
 ここでは、あまり適切とは言えないしかたで、「無政府的」と「資本家」という二つの興味深い政治的用語が使われている。
「資本家」という言葉は、18世紀から19世紀に私掠船国家の経済を沸かせた貿易船とその船主である船長たちを説明している。さらに、ここで「無政府的」というとき、これはただたんに「無法状態」を指すために使っていると思われる。
 アルジェはオスマン帝国に属していて、言葉の厳密な意味で、無政府的な組織に達することはなかった。「無政府状態」で満たされていたとき、なんらかの継続的で安定的な内政がなければ、アルジェが「私掠船国家」としてあり続けることができただろうか。
 以前のヨーロッパ中心の歴史家と扇情的な書き手たちが海賊について書くとき、アルジェとは、ひっきりなしに興奮したどん欲な集団の国である。最近の狂信的でない学者(ウィリアムスペンサーのような)は、アルジェの安定性を強調し、持続的な成立を可能にした理由を探求する傾向が強い。北アフリカに適用される「無政府的」という用語に対する疑似道徳主義の恐怖は、歴史家たちがしばしば18世紀から19世紀にかけてのヨーロッパの帝国主義と植民地主義(真に恐ろしい強奪)を正当化するという隠れた傾向を示している。
 もしアルジェが掃き溜めと見なされるのなら、それは、ヨーロッパに始まりアフリカと他の植民地に拡大する「文明化」なるものを信仰するかぎりにおいてそうなのだ。
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したがって、たんなる「無法者」ムーア人の海賊行為に対して、ヨーロッパの白人クリスチャンのえせ合理主義者や護教論者によって書かれた海賊の歴史の多くは、再検証する必要がある。
 実際は、アルジェの政府は無政府的、無政府主義的で、思いがけない方法で奇妙な民主主義を形成したのだ。
 ヨーロッパが絶対主義にじわじわと圧倒されていく時代、非ヨーロッパ諸国のアルジェは、より「水平的」で平等主義的な社会構造を示していた。アルジェはトルコ帝国の支配に従属していたが、しかし都市国家の実際の施政はイエニチェリの軍人と有力な海賊によって運営され、ときには、スルタンの命令を伝える代理人をイスタンブールに追い返していた。
 アルジェ、チュニス、トリポリの名目君主制(regency)と保護領の広がりは、それらが外国人によって担われていたのだということ、そしてそれは擬似的な植民地と呼ぶべきものだったのかもしれないという確信にいたる。アルジェでは、オジャック(Ocak)やイエニチェリ(近衛歩兵軍団)は、土着の者(ムーア人、アラブ人、ベルベル人)ではなく、「トルコ人」と括られる者たちによって統制されていた。しかしさらに複雑なことに、イエニチェリ軍団は、
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アナトリア人でないばかりか、生まれながらのムスリムですらなく、このスルタンの奴隷は、アルバニアのようなオスマン帝国の辺境で「少年税」の名目で徴発された子供たちだった。彼らは訓練され、イスラム教に改宗し、初めはオスマンの近衛兵として使用された。アルジェの名目君主制(regency)を担ったバルバロッサ兄弟は、おそらくアルバニアか、ギリシャの島嶼部から連れてこられたのだ。彼らはアルジェの兵団にアナトリア人の新兵を迎える許可を得ていたが、ほぼヨーロッパ人のレネゲイド(改宗者)で占められていたことは疑いない。
 オジャック(ocak)は、マルタ島の聖ヨハネ騎士団のように、十字軍遠征によって生まれた独立軍団である。オジャックには北アフリカ出身の兵士はいない。イエニチェリの兵士が土着の娘と結婚して子供をもうけた場合、その子供はオジャックに入団することはできないことになっていた(混血児の兵士が幾度か叛乱を起こしたことがあるが)。土着のアルジェリア人は海賊と同様に地位と権力を得ていたが、軍の管理者になることはできなかったのである。
 19世紀最後のアルジェリア海賊であるハミダ・レイスは、純粋なベルベル人だった。しかし、彼のような存在はアルジェでは例外であった。多くの場合、オジャックの「民主主義」はアルジェリア人を除外していたし、さらにはオジャックが「トルコ」から独立してあろうとするために、彼らはアルジェリア人を監視していた。これが一種の植民地であったとして、それでも彼らは(のちのフランス統治時代とは違って)この土地を母国としていた。そしてこの「トルコ人」は、19世紀のどんな植民者たちよりも、現地人に近かった。ムーア人やベルベル人がどれほど「トルコ人」を嫌っていても、スペインやフランスの艦隊が迫ったときには、彼らは力を合わせた。
 アルジェの体制をサレと比較してみたい。おそらくその一部はサレに似せてつくられている。しかし、アルジェとオスマン帝国の結びつきを考慮すると、
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この比較はあまり得るものがないだろう。長い間、アルジェはトルコ文化に併合されてきた。




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 ディバンと同格のものとして、タイフ(船長評議会)があった。残念ながら、海賊たちは官僚でなかったし記録を残す術もなかったので、ディバンだけがよく知られている。
タイフはよく中世のギルドと比較されるが、それが見落としているのは、この海賊たちの原=労働組合が、統治権力の事実上の上部組織であったという事実である。ディバンとタイフは権力を争って競合したり衝突したりしながら、どちらかが離反するような危険は冒さないという関係であった。海賊は、政治的保護・資金・紋章(menat-arms)の供給をオジャックに依存していた。ディバンは、海賊がもたらす戦利品と身代金で繁栄し、海賊経済に多くを支えられていたから、タイフが必要であった。タイフ制度についてはほとんどわかっていないのが残念なのだが、どうやらサレのディバンは、アルジェのタイフ制度(というよりもオジャックのディバン制度)を基にしているようだ。オジャックと異なるのは、上部組織の縛りが明らかに働いていないということだ。サレの船長は、純粋な功績か、海賊が呼ぶような「運の良さ」で、一隻か二隻の船を分捕った船長だった。ハミダ・レイスのような卑しい水夫たちは、出自や人種に関わらず誰もが、いつか自分の艦隊を率いることを望むことができた。
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そしてサレのタイフは、問題解決とリーダーの選出に際して、民主的な投票を行ったのである。
 概観してみると、16世紀から17世紀にかけて、アルジェリア人が行ったディバンとタイフという「二院制」の形式は、アメリカとフランスの共和制の先駆とみなすことができて(それは一世紀も離れていない)、サレの真の共和制は、イギリス清教徒革命(1640年〜50年代)後の保護国/連邦構造にも先行しているのである。
 奇妙な考えかもしれないが、ヨーロッパのデモクラシーは、海賊たちに直接に負うものがあるのではないだろうか。もちろんバーバリーの海賊たちは野蛮人であったのだが、しかし誰もはっきりと認めることはなかったが、レディカーが指摘するように、水夫たちは17世紀のプロレタリアートであり、船から船へと往来する人々のなかに(イギリスは1637年にサレに船団を派遣している)、海賊とレネゲイドたちの自由のささやきを聞くことができるかもしれないのだ。
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(第3章ここまで)