2011年2月26日土曜日

2011年2月22日火曜日

OTOさんと対談

「eke-king」の企画で、OTOさんというミュージシャンと対談をした。OTOさんは昔「じゃがたら」というバンドでギターをやっていた人。「じゃがたら」は若いころ好きでよく聴いていたので、「うひょー」って感じで収録場所に行った。

 OTOさんと話したのは、管内閣が進めようとしているTPP(環太平洋パートナーシップ協定)について。彼はTPPについて2時間ぶっとおしで話し続けた。とにかく怒っている。いろんな人に広めてほしいので太字で書くが、

 OTOは、TPPに怒っている。
「日本がTPPに加わったら、もう終わりだ」と。


 詳しい内容は後日「ele-king」に掲載される対談を読んでもらうとして、結論としては、OTOはTPP反対のために動くということだ。私も協力を約束した。
 TPPに問題を感じているアーティスト・音楽関係者は、ele-kingまたは矢部まで連絡をください。

おまけ(じゃがたら)

2011年2月21日月曜日

グリゼットの一周年パーティー

今週末の25日(金)26日(土)、新宿のバー『グリゼット』が、開店一周年パーティーをやる。

グリゼット

 『グリゼット』は、私が昔やっていたバー『じゃこばん』が廃業した後に、店舗を改装して始まったお店。二階の部屋をギャラリーにしているので、アーティストやキュレーター関係のお客さんが多い。昔の『じゃこばん』のお客さんも立ち寄るので、「頭のネジの切れた現代美術家+頭のネジの切れた左翼が飲んでいる店」になっている。年齢層は30〜40代が多く、気が楽なので、私も週に一度は行くようにしている。

 店名の『グリゼット』というのは、19世紀市民革命の前夜にパリに登場したお針子さんのこと。グレーの亜麻の服を着た女たちという意味らしい。彼女たちは縫製の仕事で自立した女性たちで、元祖「職業婦人」である。身分は低くけっして裕福ではないが、自分の稼いだカネで自由に遊んだりしていたので、元祖「自由恋愛主義者」ともいえる。フランスの辞書には「おきゃんな娘」とある。「ギャル」の原型なのかもしれない。かつてアナキストやマルクス主義者は、右翼から「貞操観念を持たず家族を破壊する乱交エロ集団」よばわりをされたのだが、そういう道徳的な攻撃がなされたのは、おそらく当時の社会のなかでグリゼットのような「新しい女たち」が無視できないほどに成長していたからだろう。私は海賊研究者なのであんまり知ったかぶりはできないが、女性史や「魔女研究」の分野では「グリゼット」はとても重要な人たちなんだと思う。
 詳しいことは、『娼婦の肖像ーロマン主義的クルチザンヌの系譜』(村田京子著、新評論)を読んでください。と、店主が言っていた。

 で、能書きはともかく、今週末は花束を買って『グリゼット』に集合。海賊研究者も、たまには粋なことしなくちゃなだ。

おまけ(フランス映画)

2011年2月17日木曜日

茶室とクローゼット

 茶室(数寄屋造)の様式を完成させたのは安土桃山時代の茶人・千利休であるが、その特徴は極端に狭いつくりである。広さは二畳から四畳半、狭いものでは一畳というものもあるらしい。部屋の入り口も、なんだこりゃというぐらい低くて狭い。よく考えてみれば変な建物だ。近代(近世)の初期、日本の茶人はなぜこんな狭苦しい建物をつくったのだろうか。
 ありそうな説明として思い当たるのは、「密談のための部屋」である。たしかにそうだ。大人が三人も入ればもういっぱいという部屋は、武将や有力商人が密談するために使われたと考えられる。
 ただ、ここで言う密談は、現代の我々が考える密談とはちょっと違うような気がする。現代人が本当に秘密を保持したいとき、ああいう狭い部屋に籠って話すだろうか。私はかつて洞爺湖サミットの反対運動の準備に関わっていたとき、本当に警察に聞かれてはヤバい話をするために呼び出されたが(そのヤバい計画はその場で断ったが)、このときの話し合いは、先方の指定にしたがって大きな公園の原っぱでやった。周りに人がいない、人が近づいて来てもすぐにわかる、見晴らしの良い原っぱの中心で、普段よりも声を落として話した。
 安土・桃山時代でもそのへんの事情は変わらないはずだ。当時は忍者が活躍した時代でもあって「壁に耳あり障子に目あり」だ。密談をするのならむしろ建物を避けて、馬に乗って野駈けにいくとか、あるいは小舟に乗ってちょっと沖に出るとかして、広い空間に身を置いた方がいいだろう。だから、もし本当に秘密を保持したい「密談」であれば、茶室のような建物はちょっと違うのではないかと思うのだ。
 これは私の推測だが、茶人たちが求めた「密談」というのは、人の出入りの多い書院造り(座敷)と比較して、相対的にプライバシーが確保されるという意味での「密談」なのではないか。この時代の武将は、下っ端ならともかく偉くなっちゃったら、つねに従者を侍らせていて一人になる機会が少ない。地位が高くなれば誰かと一対一で話すという機会はほとんどないし、組織としても許されなかっただろう。おそらく茶室という極端に狭い空間は、野駈けや舟遊びでは得られない、少数のプライベートな交わりを実現するためにあったのだろうと想像できる。

 日本の茶室から約一世紀ほど先行して、イギリスではクローゼットが生まれていた。クローゼットは現在では衣類棚や押し入れという意味だが、当時は私室であった。クローゼットは住宅の最も奥に作られ、女中はもちろん家族すらも入れない、家長だけの完全な個室として使用された。ここで一人になって休んだり、本を読んだり、手紙を書いたりしたのだ。フランスではイギリスより少し遅れて、キャビネが生まれる。キャビネも現在では戸棚という意味だが、当時は家長のための私室として作られた。
 16世紀には、英仏の上流階級では私室をもつことが普通になった。つまりプライバシーという感覚が共有され、プライベートな空間が実現していったのだ。これに少し遅れて、日本では茶室(数寄屋造)が生まれたわけだ。

 さて、なんでいまこんな文章を書いているかというと、たまたまいま読んでいる時代小説に茶室が出てきたから。白石一郎の小説『海将』を読んでいたら、小西行長が茶室で喋っていた。
 ただそれだけ。オチはない。

おまけ


追記
 現在の日本では個室付きの住宅が珍しくなくなったが、そうした場合でも個室は子供部屋などに限定される。ほとんどの人(成人)は個室をもたず、かわりに自家用車やネットカフェや個人旅行で代用している。
 いま排外主義右翼の中高年や関西人が頭の悪さをさらけだしている件で言えば、私は彼らの知能が残念なのはもっぱら教育機会の問題だと考えていたのだが、もしかしたら彼らは個室で過ごした経験がないのかもしれない。喧噪を離れて、つまり環境を離れて、一人で想い考えるという経験がだ。これは教育問題である以前に、住宅問題だったりして。と、いま思った。この場合「ネットにかじりつく人間=ひきこもり」という図式はあてはまらなくて、むしろ、彼らは充分にひきこもったことがないのかもしれない。あの動物のような、内省のなさ。とくに関西右翼に顕著。彼ら、内省って感覚、知ってるかな。疎外とか内省とかと無縁な、ひょっとして500年前の下層階級の生活世界がそのまま現代にも持ち越されているのだとして、その表出もまたデモクラシーのひとつなのかもしれないが、いやいや惨めな話だ。うんざりだ。

2011年2月16日水曜日

チュニジアについて

 チュニジアの国家転覆について。

 路上での物売りを警察に規制されたことに怒り、焼身自殺をした若者がいる。彼の行動はインターネットメディアを通じて多くの人の知るところとなり、大規模なデモ・暴動をひき起した。また、チュニジア政府に関する文書がウィキリークスによって暴露されたことで、この動きは加速していった。

 注目するべきは、情報を瞬時に大規模に伝えるニューメディアだけではないだろう。おそらく国家転覆を可能にした力の源泉は、情報に文脈を与える知性である。高い大学進学率と第三次産業が整備する「一般知性」(言語能力とニューメディア)だけでは、暴動には発展しない。そこにもうひとつ、文脈を構成し精神に運動性を与える知性が、いま暴動とともに生みだされている。このことは2005年のフランス暴動の際に書いたのでくどくど繰り返さないが、暴動はひとつの知性である。カネとセックスと道徳の話しかできない阿呆は黙っているしかないのだ。

 チュニジア革命? そうかもしれないし、そんなものではすまないのかもしれない。国家転覆を「革命」と呼ぶことが、どこか古びたものになりつつあると感じられる動きだ。

2011年2月14日月曜日

海賊戦隊ゴーカイジャー

 第一回放送が始まったが、見逃した。
海賊戦隊ゴーカイジャー
いや、とくに見たいというわけではないのだが。
公式ホームページとYoutubeで、輪郭はだいたいわかった。
おもしろいと思ったポイントは3つ。

1、まず、秘密基地がない。彼らのベースになるのは、ガレオン船様式の宇宙船だ。昔の戦隊ものでは、悪者の拠点が宇宙船だったが(外国の黒船)、このゴーカイジャーでは「悪」も「正義」も宇宙船暮らし。ちなみに、旗はジョリーロジャーでナビゲーターはオウム型ロボットだが、武器のサーベルは青龍刀。やっぱ見た目を考えると、青龍刀だよな。

2、彼らの目的は、地球でのお宝探し。地球侵略を企む宇宙帝国ザンギャックと派手に闘うが、「地球の平和を護る」(防衛する)という動機は薄弱。じゃあ、なんで闘うのか。決め台詞が「派手に行くぜ!」なので、派手に豪快に暴れたいというのが最大の動機か。まあ、戦争機械だな。

3、ゴーカイジャーに変身するだけでなく、ゴレンジャーなど過去の戦隊にも変身する。その数34種類。やりすぎだろ。しかも一度の回で2種類もやっちゃったりする。ゴーカイジャー>>>ゴレンジャー>>>シンケンジャー>>>ゴーカイジャーというふうに。戦隊のサンプリングというか著作権侵害というか、文字通り海賊版なんですね。
 ゴーカイジャーの構成は男3人に女2人(ピンクと黄色が女)なのだが、古い戦隊ものは男4人に女1人というものが多い。古い戦隊に変身しちゃったとき、黄色い人はなんなの? あとサンバルカンのような3人戦隊になったら、残りの2人は消えるの? などなどいろんな不安をかきたてる設定。ドゥルーズ/ガタリ的にいえば分裂的(スキゾ的)な主体(ていうか主体じゃない)。「モグラとヘビ」という比喩でいえば、完全にヘビ。

以上、要点をまとめてみたが、昔の「モグラ」「主体」世代の人が見たらデタラメすぎてちょっとひくかもしれない、ぶっこわれた戦隊である。暴れる動機が「暴れたいから」って、それは海賊すぎるだろう。
ポストモダンって、こういうことなのか? よくわからんが、機会があったら見てみようと思う。

追記
 船に乗ってさまようという話で言えば、10年ほど前に大ヒットした『MATRIX』がそうだった。地上を機械に征服され「地べたを失った人類」が、船に暮らしながら海賊ラジオのように電波を発信する。この「地べたのない」感覚は、現代都市生活者の共通の前提になっていくのだろう。

茨城の人、注目!

アナキスト関係の友人である加藤さん(通称ゴジラ)と、久しぶりに会った。
彼はいま母親の介護のために茨城の実家に戻っているが、そこで働きながら労働組合をやっている。

茨城不安定労働組合

 誰でも加入できる労働組合(地域ユニオン)を立ち上げて、案件もいくつか解決してきたらしい。ただ、労働問題以外の取り組みはまだまだ難航しているようだ。反戦や靖国問題などで小さな集会を催しても、茨城ではなかなか人が集まらないという。
 それでもしつこくやっているので、茨城在住の人は、よろしく。ゴジラは昔はアル中でボロボロだったけど、いまは断酒してます。直接行動で前歴があったりもするが、恨みがましいことを言わない、穏やかでさっぱりした性格です。東京のフリーター全般労働組合とも顔見知りだから、それ系の不規則行動ぎみの青少年もだいたいOk。大丈夫。我々の兄弟だから。茨城に暮らすアナキスト・サンジカリスト・海賊の仲間たち、連絡よろしくだ。

2011年2月11日金曜日

黒ひげ危機一発

 「黒ひげ危機一発」というおもちゃがある。樽に詰められた黒ひげ(海賊)に短剣を刺していくゲームだ。
短剣の差し込み口はいくつもあるが、一カ所だけ「当たり」がある。そこに刺すと、黒ひげが飛び出す。
 このゲーム、最初につくられた当時と現在とではルールが違っているという。最初に売り出された当時、メーカーが設定したルールは、短剣を刺して黒ひげを飛びあがらせたら「勝ち」であった。ところが、現在ではこれが逆転して、黒ひげを飛び上がらせたら「負け」である。つまり、ロシアンルーレットと同じルールになったのだ。
 なぜルールが変わってしまったかというと、たんに遊ぶ人(子供)が、そういうふうにしちゃったということらしい。遊ぶ人の多くが、ロシアンルーレット式のルールを定着させてしまったので、メーカーもしばらくしてそれに追従したのだという。
 捕まえた海賊に懲罰を加えるゲームは、意外にも子供にウケなかった。一般に子供というのは、意味もなく虫を殺したりするようなサディスティックな遊びが好きであるはずなのだが、樽に押し込められた黒ひげについては、そういう感情を持たなかったようだ。かわりに、子供たちは海賊黒ひげに感情移入してしまったのだ。海賊を捕らえた側ではなく、海賊の側についたのだ。
 では、なぜ子供たちは黒ひげに感情移入しちゃったのか。子供は海賊が好きなのか。子供たちにとって、眼帯をした悪党とは何か。「子供と海賊」というテーマは考えるべきことがたくさんありそうだが、このおもちゃについていえば、黒ひげというキャラに原因がありそうだ。そもそも最初のルールの設定に無理がある。黒ひげ、かわいすぎるだろう。

次回の海賊研究会は、Peter Lamborn Wilson『Pirate Utopias』の翻訳作業。
2月12日(土)15時から。カフェラバンデリアに集合。

2011年2月6日日曜日

社会運動はどのようにして政治的人格を排除すべきか

 前回、プロテスタンティズムは宗派信徒団(セクト)を形成するということについて書いたが、この「プロテスタンティズム」というのは、特定の宗派に限定するものではなく、資本主義によって一般的に要請される慣習態度を指している。
 これを、ブルジョア個人主義と言い換えてもよい。
 ブルジョア個人主義の特長は、絶望的な孤立感である。これは主観であって、客観的にどうであるかとは別の主観的な孤立感だ。この孤立感は、自らが社会的存在であることを充分に認識しないかまったく否認してしまうので、近代市民社会の基礎となる友愛(海賊的原理に立ち返るならば兄弟愛)の感覚をもたない。兄弟愛をもたないブルジョア個人主義の意識は、もっぱら政治に訴えることでしか他人と関わることができない。彼らにできることはただコミュニケーションだけである。コミュニケーションという貧しい方法に固着してしまった人格を、ここでは「政治的人格」と呼ぶことにしよう。

 社会運動の現場では、しばしばこの政治的人格に出会う。私はできるかぎり冷淡に扱い、排除するようにしている。なぜなら社会運動とは、社会の実在を是認するところから始まり、政治の廃絶(または無害化)を目指して取り組まれるものだからだ。兄弟愛を知らないかまたは軽視するような人格は、この原則に反する。政治的人格はつねに不平を言い、それは実際に不都合があるからではなくて、単にコミュニケーションと承認の道具として小さなこずるい政治を企み、社会(運動)をひきまわす。社会的に構築された理念と言葉を、そのそもそもの文脈から切り離し、ただ己の政治取引(コミュニケーション)のために私物化するのである。

 政治的人格の症候については、しばしば、利己的欲求、自己顕示欲、承認欲求の過剰として受止められ、そのように名指しされる。しかしこれは誤認である。そこにあるのは過剰ではなく欠落である。彼ら政治的人格は、特に過剰に政治的なふるまいをしてしまうのではなく、そうしたふるまいしか出来ないのだ。コミュニケーションが過剰なのではなく、コミュニケーション以外の方法を知らないのである。政治的人格が、同性の友人(兄弟・姉妹)をもたないことをみればそれは明らかだ。そしてここからが重要なのだが、政治的なふるまいしか出来ない人格(兄弟・姉妹をもたない人格)は、どこまでも孤独であることがなかば保証されているために、政治的には利用しやすい(操作しやすい)ということだ。言うまでもないことだが、ここで「政治的に利用しやすい」ということは、社会(運動)の前進・発展とは無関係である。むしろ社会(運動)の構築を阻害し、場合によっては致命的な打撃を与えることもありうる。これはセクトであるかいなかとは関係ない。一人の政治的人格が排除されないことで、十人の兄弟・姉妹たちが去っていくということはよくあることだ。

 だからここで問題をただしく設定しなおせば、問題は、なぜ社会運動は、そもそもの理念に反するような政治的人格を受け入れてしまうのか、だ。また別の言い方をすれば、人間の意志が、政治という貧しい現表行為に譲歩させられてしまうのはなぜなのか、なぜ政治的ふるまいだけが「現実的」なものとして認識され、政治的ふるまいの排除が「非現実的」とみなされるのか、だ。

 ずいぶんわかりづらい文章になってしまったが、社会運動の現場にいる人なら、思い当たるフシはたくさんあるはずだ。他人の瑕疵をネガティブに言いたてるだけの自称「左翼」。フェミニズムなど微塵も理解していないくせに周囲を威圧するためだけにフェミニズム用語を振り回す自称「フェミニスト」。兄弟・姉妹への敬意を失った我利我利亡者。
 こいつらを排除することは、ありえない「非現実的」な措置ではなくて、社会(運動)の今日明日にかかわる現実的な課題である。考えてみよう。こんなとき海賊だったらどうするだろうか。次の港で降りてもらおう。誰でもかれでも船に乗せるわけにはいかないのだ。


追記
 海賊は船に女を乗せることを嫌った。女を船に乗せることは、航海に危険をもたらすかもしれない、不吉なことだった。かつて女はもっぱら奴隷であり力のない者だったから、しばしば政治的人格として振るまい船内の秩序を破壊したのだろう。ここから導きだすべき教訓は、「集団から女を排除しろ」ということではなくて、「他人に媚びを売る劣った者弱い者に気をつけろ」ということだ。劣った者は劣った者なりのしかたで、想像もできない最悪のやりかたで、強者に復讐する。弱者をなめていると痛い目にあうのだ。

2011年2月4日金曜日

もろもろ紹介

なんか仕事しなきゃいけないのに、気が散っている。宿題の出来ない子供のようだ。「いくつになっても少年の心をもった」というのはこういうことだろうか。違うな。

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沖縄・高江のヘリパッド建設問題で、防衛施設局が工事を強行しているようだ。
詳しいことは私の口からはまったく言えないので(言うとよけいに混乱すると思う)、ブログ等、参照してほしい。
http://helipad-verybad.org/
http://takae.ti-da.net/
http://okinawaforum.org/disagreeblog/
沖縄の現場に行けないという人も、東京の防衛省に抗議を。結集を。

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ルネサンス研究所からニューズレター創刊号が来た。
やっぱ、なんだかんだ言っておもしろいね。
アップロードしたいけどやりかたがよくわらないので全文は載せられないが、例えば当日の冒頭の挨拶。

今日のシンポジウムは「第一回ルネ研シンポジウム」と記されていますが、正確には「ルネ研」発足に向けた準備のためのシンポジウムです。
 ある意味では、これは奇妙なことです。どのような会であれ、第一回の集会というものは設立総会であり、それにはある程度、会の運動方針や規約その他があらかじめ提出され、それに沿って議論がなされるものでしょう。しかしながらここに提出されている文書は、「ルネ研設立に関する提案」ならびにそれに対するコメント——いや、コメントというより批判だけと言った方かもいいかも知れません——であり、会則をはじめ研究所の設立に必要な事項は記されていません。このような世間の常識から見て、不十分な形で集会を催しましたことを、少なくともこの私は恥じてはいません。それどころか「画期的な」始まりであるのではないかとさえ考えています。

これは第二期『情況』誌の編集長だった古賀さんの冒頭挨拶だが、なんちゅう挨拶だろう。この鷹揚さ。あつかましさ。居なおりともとれるいい加減さ。
こういうところは見習うべきだと思う。


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明石書店の労働争議が解決したようだ。

いつも明石書店労組の取り組みにご声援・ご支援いただき、
ほんとうにありがとうございます。

今回の明石書店闘争の勝利和解を報告する集会を開きます(参加無料)。

有期契約の不当な雇止めをはねのけて、
今月1日から原職復帰を勝ちとった佐川、
裁判闘争を闘い抜いた山縣、女性組合員Aさん、
社内で闘い続けた(続けている)組合員をはじめ、
裁判闘争を担った弁護団も勢揃いします。
ぜひご参加ください。

日時:2011年2月23日(水)19時〜
参加:無料
場所:ユニオン運動センター(UMC)会議室
 東京都渋谷区代々木4-29-4 ミノシマビル2F
地図:http://p.tl/lyZD

↓明石書店労働組合ブログ
http://alu08.exblog.jp/

和解の内容はよくわからないが、少なくとも一人原職復帰をかちとったというのは、よかった。
一時は全滅かと思っていたので、ほっとした。
組合員の皆さん、お疲れさまです。

2011年2月3日木曜日

俺は革労協じゃないよ

 今日は雑文。
 インターネットメディアというのは何年も前の情報が残るのが特長のようだが、本当にどうでもいいデマも残ってしまうので困る。矢部史郎=革労協というデマもそうだ。
 これは瀬戸ひろゆき周辺の市民右翼が言い出したようで、いまもそういうページが残っているのだが、まったくのデタラメである。信じちゃだめですよ。
 
 革労協というのは正しくは「革命的労働者協会」といって、歴史のある党派(厳密には党ではなく派)だ。60年代から70年代に活躍した「反戦青年委員会」運動などで有名。ほかに学生団体として社会主義青年同盟解放派というのがあるが、革労協はこの社青同解放派の労働者部隊だ。いろいろと諸事情があって、現在は三つにわかれている(連帯社、現代社、赤砦社)。また、元解放派・元革労協という活動家もたくさんいて、団体に加盟しているいないに関わらず、労働運動や市民運動や人権運動に携わっている人が多い。
 私に革労協の知り合いがいるのかといえばそりゃいるのだが、たとえば人権運動なんかは超党派で取り組んだりするのだから、とくに革労協とだけべったり連携しているわけではない。ていうか、私が革労協のメンバーやシンパだったら、警視庁が放っておかないよ。こんなにきまぐれに不規則行動できないよ。それぐらいすごい団体なんだから。

 で、問題はなぜ私が革労協だと誤認されたのかだ。
 おそらく市民右翼のバカどもは、90年代に起きたある事件を記憶しているのだろう。ある事件というのは、「新しい歴史教科書をつくる会」の事務所が時限発火装置かなにかで放火された事件だ。これは私が知る限り唯一の直接攻撃だったのだが(そして「つくる会」分裂をひきおこした主要な原因だと私は思っているが)、この攻撃をやったのが革労協のどちらか(現代社か赤砦社か)だった。どちらだったかはよく覚えていない。もしかしたらまだ分裂する前だったかもしれない。この時期の革労協には苦い思いしかないので記憶が曖昧だが、とにかく革労協のどこかの部隊が「つくる会」を燃やしたのだ。
 そして一昨年の四月、埼玉県蕨市で、私は奴らと衝突する。奴らの横断幕(不法外国人を追放しろだのなんだのという汚い幕)を私が奪って、「凶悪な反日極左キター」となったのである。おそらく奴らの小さい頭では、「凶悪な反日極左=革労協」で、「矢部史郎=革労協」なのだ。繰り返し言うが、わざわざ言うのもいやだが、もちろんそんな事実はない。
 矢部史郎=革労協というデマは、私としてはちょっと光栄に思うところもあるが、当該団体やOBの人に迷惑がかかるから、やめなさい。もうすこし理論的な次元で、たとえば「矢部はローザルクセンブルグばかり引用する」、「ローザ重視ってことは解放派だろう」みたいな絡み方だったら、もうちょっとマニアックにかまってやってもよい。

補足
 埼玉県蕨市の事件というのは、市民右翼のバカどもが、蕨市在住のある中学生について「フィリピンに強制送還しろ」というデモをやった件。中学生の両親は入管法違反でフィリピンに送還されてしまったのだが、本人は在留措置が決定していた。文句があるなら霞ヶ関にでも行ってデモればいいのに、バカどもはわざわざ中学生の通う中学校周辺をデモコースに設定した。あーおぞましい。おまえら戦前のファシストかよ、と。そういうことで、多くの左派が蕨市に集まってデモに抗議。私はバカどもの横断幕を奪って破ったということで、「窃盗」容疑で逮捕、3週間ほど留置されたのち「器物損壊罪」で略式起訴(罰金)となった。あー思い出したら腹が立ってきた。

2011年2月2日水曜日

私たちはソマリアを知らない

 先日、『世界まるみえ』なんとかというテレビ番組で、ソマリアの現在の状態を特集していたのだが、残念ながら見逃した(録画した人がいたら見せて)。
 それで思い出したのだが、前回の海賊研究会は、ネグリ/ハートの『〈帝国〉』を読む回だったのだが、〈帝国〉とソマリア海賊について触れることができなかった。現代の新自由主義グローバリゼーション・構造調整政策と第三世界海賊との関係をきちんと説明できれば、仲田くんにも納得してもらえただろう。廣飯くんが言う「ハーバーマスにかわる海賊公共圏の思想」というものも、現代海賊を念頭に置いているはずだ。ソマリア海賊については、以前ある書評で触れたのだが、研究会ではまだちゃんととりあげていない。今後の宿題だ。

 そう。私たちの希望の道は、ソマリアにある。たぶん。
 私たちはソマリアを知らない。真偽の定かでない断片的な情報しかない。いま彼らがやっていることが海賊なのだから、情報が伝わってこないのは当然だ。そして、私たちがソマリアを知らないにも関わらず、それでもどうしようもなく沸き上がってくるこのシンパシーはなんだろう。
 たとえば映画『ブラックホークダウン』を観たとき、これは1993年、クリントン政権がソマリアに軍事介入したときの市街戦を描いた作品だが、ここで、ほとんど丸腰の姿で米兵を追い回すソマリア人たちに、しびれる。涙が出る。映画はとくにソマリア人を美化しているわけではなく、むしろ悪魔的に描いている部分もあるのだが、それでもソマリア人の闘いに喝采を叫んでしまう自分がいる。イスラムの戦士にはまったくシンパシーを感じないし感動もしないが、ソマリア人が米軍と闘う姿は、なぜかとても勇気づけられるのだ。
 ソマリア人が米軍介入を退けたとおもったら、こんどは海賊だ。21世紀の海賊。すごい。
 おそらく民族解放闘争のつぎに現れる新たな枠組み、新自由主義政策下のポスト民族解放闘争のひな形が、ソマリアにあるのではないかと思う。たぶん。