2012年6月25日月曜日

将棋の戦争と囲碁の戦争

将棋は護るべき者が定まっている。王を護ればよい。将棋とは、王を中心にして陣形をつくり、最後まで王を護りきる闘いである。将棋に強くなりたければ、王の立場に感情移入をして、つとめて臆病に被害妄想的に王を護ることだ。
 これに対して囲碁は、王のいない闘いである。囲碁には護るべき中心がなく、陣形は流動的でしばしば裏返しになる。囲碁は陣形を流動化させ、中心と周辺、前線と後方を、裏返していく闘いである。
 盤面の展開を比較すれば、囲碁というゲームが異常に好戦的で、純粋に戦争的であることがわかる。将棋が王の防衛に時間を費やすのとは対照的に、囲碁は常に前のめりに攻撃を繰り出していく。将棋では相手に先んじて勝ち取った時間を王の防衛にあてることができるのだが、囲碁ではすべての時間が攻撃にあてられる。
 将棋では、まず陣地があって、陣地を脅かす敵に対抗する過程で戦線が形成される。囲碁では、まず戦線が形成され、その死活の結果として陣地が形成される。ここでは陣地と戦線、平和と戦争のプロセスが、逆転しているのである。
 囲碁が純粋に戦争的であるというのは、石の性格にもあらわれている。囲碁の石というのは一見すると平板で個性のないものに見える。将棋の駒があらかじめ個性と役割を与えられているのに対して、囲碁の石はただ「ある」ということを表示するだけに見える。しかし、盤面が形成されるにしたがって、その全体的状況と局地的状況のありかたが、一個一個の石の多様な顔を生み出していく。最前線の要地で懸命に踏ん張っている石、つかの間の平和のなかでのんびり休んでいる石、敵に包囲され青ざめている石、さまざまな表情があらわれる。それは戦争に先だっては存在しない、戦争によって付与された個性であり運命である。もしもこの戦争がなければ、彼らはただの石にすぎなかっただろう。戦争のために彼らはただの平凡な石であることをやめなければならなかった。彼らの力を引き出し非凡さを発揮させるのは、ただ一つ、戦争によってなのである。

 将棋と囲碁の違いを並べてたてて、いったい何が言いたいのかと思われるかもしれない。こんなことは20年も前にドゥルーズ/ガタリが論じたことを引き写しているだけではないか、と。

 私がここで言おうと思うのは、放射能防護活動がどのような見通しで営まれているかである。2011年3月以来、我々はまったく予想しなかった放射能との対決を強いられ、同時に、日本社会との闘争に投げ込まれてしまった。ここで我々が直面するのは、この闘いの力学をどのようなものとして構想するかという認識の混乱であり、闘いの様式をめぐる問いである。戦争を遂行する二つの様式があって、その論理はまったく異なっている。そのことを将棋と囲碁の比喩で言おうと思うのだ。

 戦争を将棋のように想像することは容易だ。それは位階制秩序における政治をよく模写しているからだ。中心に王がいて、その両脇に金将・銀将・飛車・角という将が構えていて、王と将の力を後ろ盾にして歩兵が動いていく。通常の社会における政治は、将棋のような配置と力学をもつ。しかし叛乱と革命戦争を何度も経験してきた中国では、将棋の秩序が破られてしまう純粋な戦争があることが知られている。純粋な戦争状態では、王と将と兵の区別のない無政府状態があらわれる。このことを表現したのが囲碁だ。
将棋の駒はすべて本質的に捨て駒である。将・兵の駒は王のために死ぬことを予約されている。しかし囲碁の石はすべて活きるべき石である。それが結果として敵に撃たれ捨て石となってしまうにしても、はじめから死ぬために置かれる石はひとつもない。なぜなら囲碁が表現する純粋戦争には王がおらず、すべての石が王だからである。すべての石が王となって死活的な戦闘を闘うからこそ、陣形を転覆するダイナミズムが生まれるのだ。

放射能との闘いは国家と社会が対峙する従来の図式が崩れていて、我々はもう将棋の駒のような意識では闘えない。「何かのために身を捧げる」という中途半端な構えでは、この闘いを闘いきることはできない。一つ一つの石ころが王にならなければならない。

追記
 いま読み返したらちょっと電波っぽい文章なのでもう少し説明的に書くと、ここで言いたいのは、「陣地線」や「二重権力」あるいは「サンヂカリズム」というものを、まるで将棋の盤面のようにイメージしていたのではだめだということである。それは、構成されたものと構成するものとをさかさまに見て、結果と原因を転倒させた意識である。完全に誤謬である。
 これまでの短い歴史のなかで、社会運動というシーンに自分の位置と役割があるかのように勘違いしている人間は、はやく目を覚ませと言いたい。おまえはただの石にすぎない。ただの石が闘うときにこそ、状況が動くのだ。

2012年6月22日金曜日

原発再稼働を止めるために

電力会社は原子力発電所を止めることができない。これは電力供給の問題ではなく、資産の勘定の問題である。原発が使えるものであれば、原子力施設も核燃料も資産として勘定できる。使用済み核燃料も、実際には核燃サイクル計画が暗礁にのりあげていても、いつか将来的に「再利用できる」ということにしておけば、資産である。
 原子力発電所が稼働できないとなれば、原発も核燃料も使用済み核燃料もすべて、負の資産になる。これは帳簿の問題であって、実体経済とは別の次元の話だ。彼らが言う「日本経済」というのは、我々が生きている生活経済とは別の、帳簿の経済である。
 電力会社、銀行、株主の帳簿をクラッシュさせないために、彼らはなんとしても原発再稼働を言い続ける。事故も隠すし、放射能汚染も隠ぺいする。彼らの帳簿の健全性を保持するために、我々は「安全・安心」のスペクタクルを演じさせられるわけだ。政府が「再稼働」を言うことができるのは、汚染地帯東京に暮らす人々がこのスペクタクルの社会を容認し追従するだろうと見なしているからである。

 原発再稼働問題は、もう電力問題ではなくなっている。これは、彼らが要求するスペクタクルの「日常」を演じるのか拒絶するのかという包括的な問題になっている。
 東京の「日常生活」を放棄し、逃散すること。放射能汚染を告発し続けること。議員が悲鳴を上げるまで責めたてること。これが原発を止める唯一の途だ。

2012年6月20日水曜日

豊川(愛知県)の汚染状況

先月16日、愛知県の豊川の三か所から土壌サンプルを採取した。
 一か所は豊川の河口にあたる豊橋市。豊橋排水機場の付近に泥が堆積している部分があったので、その泥を採取。
 二か所目は、隣の豊川市。河口から15kmさかのぼった三上橋の付近で河の砂を採取。
 三か所目はさらに水源にさかのぼって新城市の大原貯水池。貯水池には立ち入ることができないので、貯水池を囲む森林の土壌を採取した。
 豊橋市、豊川市の砂は、いちおう不検出(10Bq/kg未満)。
 新城市の土は、セシウム137が14 Bq/kg、セシウム134が7 Bq/kg検出された。

このまえ出版した『3・12の思想』や、図書新聞5/19号の一面のインタビューでも触れたことだが、セシウム134は重要。比較的短命なセシウム134が検出されたということは、これは東京電力のセシウムである。福島第一原発の放出した放射性物質は、愛知県新城市に到達していることが確認できた。量的には微妙というか、NaI核種分析機の精度で検出するにはギリギリのレベルなわけだが、この森林にある東電製セシウムは、これから時間をかけて河を下り、河口から海に注ぎ、伊勢湾に棲息する魚介類に濃縮することになる。14Bq/kgのセシウム137が、魚の体内でどれぐらい濃縮するのかはわからない。暗中模索だ。

 今後は、釣り師のコイエくんにボートを出してもらい、伊勢湾で魚を釣ろうと思う。コイエくんというのは、この間の沿岸調査をリードしてきた釣り師でありアニメオタクであり介護労働者である。オタクの若者と思想家を自称する中年の二人で、1.5キロの魚を釣り、放射線を測定する。この作業を定期的にやらなくてはならない。

41歳にして初めての釣りである。
思えば遠くへ来たものだ。

2012年6月17日日曜日

新刊の前口上

今日、新評論から新刊見本がきた。

『放射能を食えというならそんな社会はいらない、ゼロベクレル派宣言』(新評論)

来週には書店に配本される予定です。
以下、出版社の近刊案内で出されている自己紹介文を転載します。


放射能問題を考える
矢部史郎

福島第一原子力発電所が「レベル7」の事故を起こして以来、放射能問題にどう対処するかが大きな課題になっています。世界が日本に注目しているのは、放射性物質の拡散がどのような被害をもたらすかであり、また、日本に居合わせた我々がどのように放射能と対決するかです。問題は自然科学の領域に留まらず、自然科学と社会科学、さらには文学的課題も含めて、さまざまな領域を横断して考え、応答することが求められているのです。

 本書『放射能を食えというならそんな社会はいらない、ゼロベクレル派宣言』は、「反原発派」としての意見表明であるだけでなく「反放射能」=ゼロベクレル派の態度表明として書かれました。放射能の被害について過小評価することや、被曝を受忍することは、いまや国民的合意になりつつあります。それは原子力行政の側はもちろんのこと、反原発派の側にも、被曝を受忍しようとする諦念に似た気分が広がっています。右派であると左派であるとを問わず、自己犠牲的行為が称揚され、「放射能を食えという社会」が構成されつつあるのです。ここにあらわれているのは、これまで積み上げてきた人権概念がなし崩しにされる事態です。人権を希求する社会にかわって、同調と自己犠牲を求める「社会」が登場したのです。放射能のある社会とは、言いかえれば、人権が放棄される社会です。現在の日本において、我々が批判的思考を働かせるならば、まずこの「人権の危機」を正面から受け止め応答するものでなければならないと考えます。

いま日本で起きている人権の危機は、危機であると同時に契機にもなりうるものです。社会科学も人文科学も、この2011年の危機を境に生まれ変わるでしょう。しかしただ「生まれ変わるでしょう」と他人事のように構えているのでは充分でない。ここで私は、科学と文学を産み直す実践に自らをなげこむことを表明します。これは私個人の決意表明であり、同時代の人々への呼びかけでもあります。いまこの社会で批判的に反時代的に考えることは、これまで以上に刺激的で使命を帯びたものになっているのです。


6月下旬には新宿の模索舎で、7月6日には新宿の紀伊国屋書店で、それぞれトークイベントをやります。
地元名古屋での販促イベントは未定。本当は正文館あたりでちまっとやりたいんですが、どうも名古屋はそういう文化がないようで、まだまだこれからです。

追記
 新宿の模索舎のイベントは、6月27日19時からに決まりました。
 場所は模索舎(地下鉄丸ノ内線「新宿御苑」駅歩5分)です。
 
 http://www.mosakusha.com/voice_of_the_staff/2012/06/vs20113122012627.html

2012年6月15日金曜日

審査について

いま原稿書きが行き詰まっているので、雑文を書く。
少し古い話になるが、いわゆる「河本問題」について。
吉本興業の芸人が、充分な所得があるにもかかわらず母親の経済的援助を断り、母親が生活保護を受給し続けていたという問題。同様の構図で複数の芸人が生活保護の不正受給を疑われている。
 自民党の頭の残念な議員が国会で追及したわけだが、彼女の思惑通りに、問題の焦点は生活保護制度に向けられているようだ。生活保護、是か非か、みたいな構図だ。

 本当の問題は、審査をめぐる不正疑惑である。ケースワーカーが不正を働いたのではないかという疑惑であり、吉本興業が不正受給をほう助していたのではないかという疑惑だ。
企業が節税をしたり補助金を受け取るために法律家を雇うことは、よくあることだ。さまざまな雇用対策にかかわる税金投入には、法律に通じた専門家が携わっていて、何人ものコンサルタントを雇った企業が補助金をむさぼるという構図がある。雇用対策や社会保障に使われた資金(税金)のうちどれぐらいを企業とコンサルタントたちがむさぼったのかという具体的なデータはないのだが、蓋然的に考えて、法律に疎い者よりも法律の抜け穴を熟知した者の方が先に税金にありつくのであり、審査をする行政職員は、本来救済されるべき人々よりもコンサルタントたちに癒着しやすい人種である。

 一方では生活保護を切られて餓死をする者がいて、他方では、人並み以上の所得がありながら生活保護を受給している者がいる。これは受給をめぐる審査の正当性がグラグラになってしまう事態だ。
審査とは何なのか。こんな馬鹿馬鹿しい不正がまかりとおるなら、審査する者を解雇して、すべての人に無審査で最低所得を分配すれば良いではないか。

2012年6月14日木曜日

今月発売の『現代思想』

6月下旬に発売となる『現代思想7月号』(青土社)に原稿を出した。
 7月号の特集は『被曝と暮らし』。
 4月に博多のトークイベントに呼んでくれた森元斎くんも書いている。博多で彼と話したときに、「原稿依頼がきた」と言っていた。
「いいなあ森くんは。俺なんかもう腫れものだから、なかなか依頼こないよ。」と言っていたら、何があったのか、たぶん予想外に書き手が少なかったのだと思うのだが、締切の三週間前に依頼がきた。もう雑誌から依頼がくるのは最後かもしれないので、書きたい放題に書いた。

 私が出した原稿は、ずばり「被曝不平等論」。
 「被曝を受忍する」とか簡単に言うけど国民が平等に痛みを分かち合うなんて現実にはありえないよね、という話。被曝が不平等という話から、さらには、市民の防護活動をあてにしてタダノリする政府は許せん、という話。さらに筆がのったので、いま主婦バッシングする奴らはブルジョアイデオロギーに汚染されたニセ左翼・ニセフェミニストだ、という話。個人名はいちいちあげていないが、誰のことを言っているのかは明白。再点検ですよ、もう。

 この「被曝不平等論」は、三倍ぐらいに加筆して書籍にする予定。年内に書きあげたい。

さいたま市で医師が不足

さいたま市の赤十字病院では、来月から小児科医がいなくなってしまうという。すでに産科医もいなくなっていて、残っていた小児科医も全員退職してしまうのだそうだ。かわりの医師もみつからず、この病院では産科・小児科ともに機能停止に陥る。こうした動きは関東各地で起きているのだろうと推測する。無理もない。私が医者だったら退避する。

 産科医・小児科医というのは、もともと福島第一の事件が起きる以前から不足していた。医師にとって条件が悪いからだ。それに加えて今回の放射性物質の拡散は、こどもたちに被曝を強制し、わけのわからない症状を頻発させている。医師が悲鳴を上げるのは充分に予想できた話だ。充分に予想できたにもかかわらず、厚労省は汚染食品を流通させ、適切な防護教育をせず、文科省は学校給食もグラウンドの土もプールの水質も野放しにしている。そうした無策のツケを、こどもの体と医療機関におしつけているわけだ。やってられるかよ、と職務を放棄する医師は、正しい。

 もう社会は壊れている。こんなぶっこわれた社会で、医師の責務もへったくれもない。阿呆に付き従うのはやめて、さっさと抜けるのが道理だ。