2012年8月23日木曜日

一票の格差




 これから衆議院選挙がおこなわれる。選挙のことを考えると、とにかく腹立たしい。
なにが腹が立つかというと、投票権の不平等である。これはいま裁判所が憲法違反と言っている件とは別の、もっと根本的な不平等である。また、在日朝鮮人の選挙権はく奪についてはもちろん大問題であるが、いまここでは割愛する。今回の選挙でとくに腹が立っているのは、もっと広範で一般的な不平等である。

まず私について言うと、投票権が一票あるわけだが、なぜ一票しかないのか。少なくともあと一票は必要だ。うちは娘が一人いて三人家族である。しかし選挙管理委員会が送ってくる投票券は、私と妻とあわせて二票しかない。これでは足りない。
問題はうちに限ったことではない。いま多くの母親と妊婦が放射能汚染問題で頭を悩ませているわけだが、彼女たちは自分の将来だけを考えているのではない。彼女たちは自分の将来に加えて、こどもの将来を考えて、頭を悩ませているのである。なぜ一票しか与えないのか。自分ひとりでなく二人分も三人分も悩まなければならない人間がいて、他方、「俺はもういつ死んだっていいんだ」とうそぶくボンクラな年寄りがいて、両者が同じ一票しか与えられないというのは不当である。
私は本来なら1.5票の投票権をもつはずなのだが、実際にはこれが三分の二に切り詰められて、一票分の券しか送られてこない。権利のうち三分の一を盗まれているのである。公然と。

腹立たしいことは、もうひとつある。なぜ東北・関東・中部の汚染地域の住民が、他の地域と同じ一票なのか。ひとり五票分ぐらい割り当てるべきではないのか。中選挙区にもどすとか比例代表を増員するとかして、西日本と東日本で五倍の格差ぐらいつけたらいい。それぐらい重い被害を受けているんだから。

選挙というのは昔から腹立たしいものだが、今回は吐きださずにはいられないぐらい腹が立つ。「議会制は多数者を排除するものだ」というのは、原理的に言えばそのとおりなのだが、目の前であからさまにやられると煮えくりかえる。




追記
 これだけだと子持ち中年男性の怒りみたいな矮小化を免れないので、もう少し書く。

 問題は、議会制民主主義というものが住民の意思を代表しつつ、同時に排除しているということである。意思決定から排除され権利を盗まれた者たちは、その盗まれた分を回復するために自力救済の途を探すわけだが、ここで現代の国家はこの問題の補完物を用意している。
 「住民参加型行政」である。
 国家はその政策の意思決定から市民を排除し、そこで放棄されてしまった問題の尻拭いを、「住民参加」という疑似的な民主主義の形式で行わせる。本来は政策として議論され措置を施されるべき諸問題を、すべて住民の「意識」と努力に丸投げし、あらかじめ責任を転嫁してしまう形式である。それは、現れている問題を政策の全体のなかで考えるのではなく、なにか気のきいたサービスを待つシングルイッシュ―に断片化して取り扱う。そうした方策こそが「現実的な」問題解決であるというのが、90年代の新自由主義政策下に登場した「住民参加型行政」だ。
たとえばいま注目され問題視されているエートス・プロジェクトは典型的な例だ。エートス・プロジェクトというのがどういうものかはググってもらうとして、問題は、このプロジェクトが外見的には住民の自発性に基づく活動として表現されていることである。それは外見だけでなく、部分的には事実なのだろうと思う。エートス・プロジェクトの活動主体はいわき市や郡山市の住民有志であり、彼らは政策的に被曝生活を強いられつつ、同時に、「主体的」に被曝生活を受忍しようとしている。そしてここで要求されているのは、国や県による改善措置ではなく、もっと手近で痒い所に手の届くサービスなのだ。
私はずっと以前から、住民参加型行政の翼賛的性格を批判し危険視してきたが、まさかここまで先鋭化し、構造の暗黒面をさらけだす団体が登場するとは予想しなかった。
こうした住民参加型の政策翼賛運動は、もとをたどれば、議会制民主主義のもつ非民主的性格から生みだされているわけだが、他方では、こうした形式の翼賛と対峙するための思想が充分に準備されてこなかったことにもあると思う。いったいどれだけの「批判的知識人」が、エートスのような住民運動を批判できるだろうか。問題は、エートスの提示する結論が間違いだというだけでない。その次元での批判はもちろんやるべきなのだが、それ以上に批判されるべきは、問題解決の方向性であり、結論に至ろうとするプロセスである。「あれは本来の意味での市民活動じゃない」と言うのでは不充分だ。そんなどうとでもとれるその場しのぎの評価をふりまわすぐらいなら、バツの悪い顔で沈黙しているほうがまだましだ。問題は、エートス・プロジェクトのような活動が、どのような住民感情を培地にし材料にしているかである。

権利を奪われ周辺化された人間は、すでにその時点で傷ついている。我々が一般的に選挙嫌いで棄権しがちなのは、選挙制度というものが自尊心を傷つけるものだからである。傷ついた人間は、捨てばちであったり、問題を不正確にしたり、ごまかしを平気でやるようになる。人々が排除された権利についてもういちど要求するとき、その要求は切実であるだけでなくて、自分でも自覚しきれないようなごまかしを含んでしまっている。行政はそのごまかしにつけこんで共犯関係をつくり、議会外の市民活動をコントロールするわけだ。このことを書きだすと長い論文になってしまうのでここでは展開しないが、現在の状況のなかでひとつ確実に言えるのは、「住民活動なんて信用するな」ってことだ。
住民の団結は、誤謬にまみれている。
バラバラになれ。
「プロレタリアに祖国なし」だ。

2012年8月7日火曜日

小麦・大豆警報

関東産の汚染小麦と汚染大豆が、加工食品になって流通している。
加工食品は、複数産地を混ぜることで放射線濃度を操作することができるので、要注意。
この数カ月、部屋にこもって文章書きに没頭していたので、これは完全に出遅れた。

小麦の加工食品では、セシウム134・137合算で7Bq/kg程度のものが発見されている。
これは市民測定所のNaI核種分析機が追える検出限界でギリギリのライン。丁寧に時間をかけて測定しないと、うっかり「不検出」にしてしまうレベルだ。
まずい。
本気で測定しないと、やられる。
麺類、パン、納豆、味噌、醤油には要警戒だ。

2012年8月2日木曜日

3・10の思想

8月2日午後1時頃、福島第一原発付近の住民が、大きな爆発音を2回聴いたらしい。ツイッターで複数のつぶやきがあった。真偽を確認するには時間がかかるだろうが、用心に越したことはない。東北・関東の放射線量を注視して、上昇する気配があれば早めに退避してほしい。
  こういうときに情報の真偽を確認するのは簡単だ。普通は嘘を言う動機があるかどうか考えればいいわけで、この動機づけという点で、新聞やテレビはまず眉に唾したほうがいいというのが大方の見方だ。では、一般市民が発信する情報の確度はどうかというと、これは嘘をつかなければならない理由がないのだから、私はだいたい信用している。

 ただしひとつ例外があって、政治闘争の場面では、一般市民であっても嘘をつくことがある。
  私の本をいくつか担当している編集者のF氏は、最近の東京の大規模デモの仕切り方に怒っているのだが、その最大の理由は、動員数の盛り方である。
デモの主催者はたいてい動員数を盛って発表する。実際には1200人が参加した集会を1500人と発表したりする。そういうことは私もいままでやってきた。で、現在の東京のデモも、主催者は動員数を過大に発表している。先月の日比谷公園での反原発デモは、主催者発表で17万人、警察発表で7万5千人だった。F氏が問題にするのは、盛り方の程度がはなはだしいということではない。無党派主催はせいぜい3割増しだけど、さすが大党派は盛り方がすごいね、ということではない。彼が怒っているのはそういう「程度の問題」ではなくて、「3・12」以後は、もうそういうやりかたは通用しないはずだということである。

  「3・12」の原発爆発後、我々が何に苦しめられたかを想いおこしてほしい。それは、数字である。我々は数字に翻弄され、憤り、疑心暗鬼になったすえに、各自がガイガーカウンターを入手して線量を調べたのである。問題は空間線量だけではない。食品の放射線濃度、人体の被曝線量評価、原子炉容器の圧力と温度、真夏の電力需要、等々、原子力にかかわるあらゆる数字が、嘘と印象操作にまみれてきた。客観的に示されるべき数字が政治的な理由によって曲げられたという事実に、我々は怒っているのである。この怒りの焦点を、デモ主催者はほとんど理解していないようにみえる。市民のこの怒りをおおきな共感へと束ねていくのではなく、まったく逆に、政府とほとんど同じ手つきで動員数を操作し過大発表している。なにをやっているのか。まったく空気が読めていない。

   原発の爆発事件は、多くの人の認識を変えた。しかし、これまで政治運動をやってきたと自認する人々は、いまだに旧い認識と旧い手法のままでこの事態を乗り切ろうとしている。これは最近きいた新しい用語で言うと、「3・10の思想」というやつだ。爆発後にあらわれる「3・12の思想」に対して、爆発以前の旧態依然とした姿勢を「3・10の思想」と呼ぶらしい。こういうのは、もう、退場だ。いい加減にした方がいい。まじめにやらないと三行半を突きつけられて終わっちゃうぞ。