2012年11月29日木曜日

二つの共感、二つの社会




 放射線防護活動をめぐって、とくに農産物等の食品流通をめぐっては、しばしば生産者と消費者とが対立する構図が持ち出されてきた。
つまり、「復興」政策とそれに追従する生産者・流通業者は、汚染地域での生産活動維持のために、消費者に汚染食品を売ろうとする。東北・関東の一次産業のために「食べて応援」というやつだ。食品流通のために検査基準は甘くされ、「少しぐらいなら大丈夫」というような「放射能安全神話」に傾倒する。
対して消費者は、関東・東北・中部地方の食品を排除することに専念している。私のように「ゼロベクレル」を要求するわけだ。
復興派とゼロベクレル派は、原子力政策への怒りという点では共通しているのだが、放射線防護活動においては対立する。両者の対立は偽の対立であるというのはそのとおりかもしれないが、それはずっと後になってから言えることだ。いま放射線防護に臨むとき、汚染物質の流通にどういう態度をとるかを選ばなくてはならない。市民活動と社会運動は、この対立のどちらにつくのかではっきりと色分けされることになる。
共感の二つの対象がある。被害にあった生産者に対する共感、そして、汚染のつけを押し付けられる消費者への共感。
二つの共感をわけているのは、性別役割分業に基づくものだという説がある。つまり、身体と生存にたいする責任意識を持たない男性と、身体と生存に責任意識をもつ女性との違いだ。これは非常に大きな要素だ。(この点については、『現代思想』7月号「被曝不平等論」で触れた)。しかし、ここではもう少し別の角度で問題を再構成してみたい。

放射線防護活動は、何かを放棄しなくてはならない。生産活動と身体の安全のどちらをも補償することは困難で、汚染地域の住民はどちらかを放棄するという選択を迫られる。日本社会は、汚染地域の住民に何かを放棄することを要求することになる。
どちらを放棄しても死者が出る。土地を奪われて経済的にも社会的にも追い詰められた人々は、そのうちの何人かを亡くすことになる。土地に残り、放射性物質を浴び続ける生活を続けたとき、やはり何人かを亡くすことになる。どちらの選択がより多くの死者を出してしまうかを天秤にかけて考えるという問題ではない。これは、究極的には正義に関わる問題である。今後の社会にとって誰のどのような権利が擁護されるべきか、社会は誰のための社会であるべきか、という問題である。

二つの共感はそれぞれ、誰のどのような権利を擁護しようとしているのか。生産者への共感とは、生産活動の諸権利、財産権、小地主への共感である。消費者への共感とは、生存権と自由への共感である。小地主と、嫁。どちらの切実さに共感するのか。制度的に構築された経済資本・社会資本の諸権利を護持したいと考えるのか、それとも、制度から排除された自由な者、ただ生きている者(プロレタリアート)の生存を護持したいのか。
放射線防護における二つの共感は、小地主・小ブルジョアジーの諸権利に共感するのか、自由プロレタリアートの生存のはかなさに共感するのかという、階級意識のとりかたの問題である。それは放射能拡散後の社会を、誰のための社会にするのかというビジョンに直結している。
だから、ゼロベクレルを要求する消費者を、たんなる「エゴイスト」と捉えるべきではない。彼女たちの要求は、現存の社会諸制度に浸透した小ブル的傾向への憎悪を潜在させているのである。