2013年2月18日月曜日

「狼少年」の教訓




 最近「放射能アレルギー」という罵倒の仕方を聴かなくなったという話を書いたが、もうひとつ聴かなくなった言葉がある。
「狼少年」だ。
 私は今回の放射能拡散事件に際して、関東からの退避・移住を勧めてきたが、これは一昔前なら「矢部はまるで狼少年だ」と揶揄されるだろう言動である。しかし予想に反して、狼少年という言葉が聴こえてこない。一部では強い反発を買っていることはあるらしいのだが、しかし私の言動を批判するときに「狼少年」とか「狼中年」という言い方はされていないようなのだ。

 放射能拡散事件の以前、「狼少年」の寓話は道徳的な教訓話として解釈されることが支配的だったように思う。つまり「ふだん嘘をついていると、大事な時に人に信用されませんよ」という教訓話である。これは災厄を免れて生き残った少年の立場にたった解釈である。
しかし現在、「狼少年」の寓話は全く別のことを教えてくれる。この寓話を村人の立場にたって読み直せば、「少年の人格と、その情報の真偽とは、関係がない」ということなのだ。少年がどんな不心得者であろうと、災厄はやってきて、少年の言葉を信じなかった村人は滅ぼされてしまうのである。この反道徳的な結末から引き出される教訓は、「村で一番信用できない人間の話にこそ耳を傾けなくてはならないときがある」ということだ。よく考えると深い話なのだ。

 想像してみてほしいのは、放射能汚染問題がまだそれほど切迫していなかったなら、みんなもっと無邪気に「矢部は狼少年だ」と言えただろう。「矢部はこれまでもずっとKYで、場違いな言動を繰り返してきたやつだ」と。しかし現在はそうやって笑い飛ばす元気もない。人間の道徳的判断を超える事態が現実にあらわれていると感じられているからだ。

木下黄太とか武田邦彦とか東海アマという人たちが、「人格的に問題あり」だと論難されるときに、しかしそういう批判はもうひとつ効いていない。他人の人格をどうのこうの言っているあいだに、災厄に呑み込まれてしまうかもしれないからである。嘘つきに煽られ慌てふためく間抜けさと、余裕をかました直後に狼にかじられる間抜けさと、どちらの間抜けを選ぶかを迫られているわけだ。
世界は残酷だ。



追記
 狼少年の寓話が残酷であるのは、これが時間の不可逆性に触れているからである。「狼が来た」という嘘に騙されることも、狼に襲われて滅ぼされることも、どちらもあとになってからは修正しようがない。時間は一方向に進むのみで、巻き戻すことができない。
道徳や道徳的制度は、時間を棚上げにした人間の想念にすぎないものだから、あとからいくらでも修正可能である。しかし、現実は修正できない時間に支配されている。だから人間の自由ということを唯物論的に考えるとき、道徳心は退場させなければならない。学級会みたいな左翼には、そろそろ黙ってもらわないといけないのだ。