2013年2月21日木曜日

プロメテウスとエピメテウス


 頭の悪い東大教授一ノ瀬のせいで、最悪な気分になったので、ちょっと気分転換に書く。近刊『被曝社会年報』に寄せられたマニュエル・ヤンの文章に触発されて、すこし「プロメテウス」の話を書きたい。

 朝日新聞の記事『プロメテウスのなんとか』等でたびたび目にするようになった「プロメテウス」。原子力開発の比喩として(あるいは共産主義批判をも含意させながら)よく使われているわけだが、ここであまり言及されることがないのは、エピメテウスの存在だ。

 神話上の人物プロメテウスは四人兄弟の一人で、アトラス、プロメテウス、エピメテウス、メノイティオスがいる。このなかでプロメテウスと対称をなしているのがエピメテウスだ。
プロメテウスが「行為の前に(プロ)考える者(メテウス)」であるのに対して、エピメテウスは「行為の後に(エピ)考える者(メテウス)」である。一般的には、行為の前に考えるプロメテウスが知性を代表し、行為の後に考えるエピメテウスはいつも失敗を重ねる愚鈍な者とされる。この評価はちょっと不当なのだが、まあそこは神話だから。
 現実におこなわれる実践において、我々の知性の基盤はエピメテウスの知性である。何かを為そうとするときに、もちろんあらかじめあれこれ考えるわけだが、その予測した通りに物事が進むことは少ない。必ず何か失敗をして、ああそういうことだったのかと後になって理解するのである。知性とは蓄積された失敗である。そしてプロ=メテウスの知性とは実は、兄弟のおかしてきた失敗の蓄積を、横からいただいたものなのである。
 職人はこのプロセスの事情をよく知っている。彼はエピメテウスでもありプロメテウスでもあるからだ。彼はつねに失敗にさらされていて、失敗を避けていたら成長することができない。「習うより慣れろ」と彼らは言う。そして良い職人は自分で試行錯誤するだけでなく、他人の技術を「見て盗む」。それは成功例を見るだけでなく、失敗したケースもじっくりと吟味するのだ。ここではエピメテウスとプロメテウスが正しく対をなして循環している。知性の源泉に、失敗の蓄積(エピメテウス)と、その譲渡(プロメテウス)があることを知っているのである。

 この二年間、広域の放射能汚染に際して、市井の科学者たちはエピメテウス的環境に投げ込まれた。放射性物質の拡散と動態はつかみがたく、甘い予測は裏切られる。充分に測定できたと思ったら、取り逃していた。除染を試みたが、雨が降って線量がもどってしまった。そうした失敗を重ねて我々は、物質に対しても人間に対しても謙虚になっていった。大規模に現出したエピメテウス的環境のなかで、エピメテウスとプロメテウスが正しく循環し、防護に関わる新たな知見と考察がはじまったのである。
 だから問題の焦点は、政府が進めてきた「プロメテウス」の知性が挫けたことではなくて、実は彼らがプロメテウスですらなかったということにある。だって政府は失敗を知らないのだから。子供が大量の鼻血を出しているときに、それをじっくりと見るということをしないのだから。「御用学者」と呼ばれる人々が独善的で傲慢な態度に終始しているのは、彼らが政府関係者だからではない。知性のいきいきとした循環から疎外された者だからである。
傲慢は、知性のない者の鎧である。
市井の防護派の人々の怒りは、無知に対する怒りである。