2013年5月16日木曜日

傷としてのナショナリズム




 「日本維新の会」共同代表で大阪市長でもある橋下某というタレント政治家の発言が問題になっている。沖縄の米兵による暴力事件に触れて、「風俗産業を活用してもらって」云々という発言である。発言の詳細は不愉快なので書かないが、沖縄の基地問題から性暴力事件だけを抜き出し、さらには性暴力の問題を性欲の問題に還元するという、問題を著しく矮小化した発言である。あらためて確認しておくが、性暴力の問題は「性欲の解消」の問題ではない。そんな簡単な思いつきの「解決策」で、人間や社会の暴力がなんとかなると本気で思っているのか。こういう思慮の浅い思いつきを、なんて言うの? 「ソリューション」って言うの? まったく。橋下はとっとと辞職して、サラ金屋のコンサルでもやってろ。

 橋下某の話をしているときりがないので、本題にはいる。
 今回の橋下発言で想起されるのは、放射能拡散直後に、原子力機構の広報が行った差別事件である。
 原子力機構のホームページは、「放射線」「放射性物質」「放射能」という用語の解説で、放射能を「怒っている奥さん」に喩えたのである。「放射線・放射能を夫婦喧嘩にたとえた場合」、「奥さんの怒鳴り声が放射線」、「怒って興奮している奥さんそのものが放射性物質」とイラスト入りで説明した。この表現は大問題になりホームページから削除されたのだが、この差別事件で明らかになったのは、原子力機構という組織が誰に向けて広報をしているかということである。
 常識的に考えれば、放射線防護に関心を寄せ、防護対策(家事労働)の主体となるのは女性であるから、広報は主に女性に向けて問題を説明しなくてはならない。放射線防護を解説したブックレットはたくさん出版されているが、ほとんどは女性(主婦)に向けて書かれている。しかし原子力機構は逆のコースをとった。彼らは、防護対策の主体にならないだろう男性に向けて、広報をしていたのである。「奥さんがヒステリー」と言ってウケる相手に。そんなやりかたが「広報」と言えるのかという大きな疑問があるのだが、原子力機構が広報の対象とする社会とは、男だけで談合すればなんとかなる「社会」を想定していたらしい。女と話す気などハナからなかったのだ。
 これは言い方を換えれば、合意形成をはかるべき「社会」の範囲を、男性に限定したということである。放射能汚染公害という「国難」に際して、原子力機構は、女性や外国人の意見を排除すべく、彼らの「身内」である自民族男性を固めたのである。なぜなら、一般的に言って女性や外国人は、彼らよりはるかに多くの知識をもち、事態の深刻さを知っているからである。合意形成に彼女たちを交えてしまったら、原子力機構の望む統制は不可能だからである。

 現在の保守系政治家の発言が、ナショナリズムを色濃くしているのは、2011年に始まる放射能公害事件と無関係ではない。
 かつて90年代、新自由主義政策のしわ寄せをもっとも被ったのは若年・女性労働者だったが、彼ら非正規労働者や失業者の声はマスメディアから完全に排除されていた。なぜなら新自由主義政策の嘘と矛盾をもっともよく知っていたのは若年・女性労働者だったからである。正規職に付けない若者の問題は、精神の問題にされ、「自己責任」だと喧伝された。正規労働者は事態の深刻さを直視しないために、若者たちの貧困を黙認した。それと同じことが、いま矛先を変えて繰り返されている。
 2011年以後、ブルジョア政治家とブルジョアマスコミ(注1)が追求するのは、放射能公害事件が引き起こす経済的政治的危機から、彼らの「社会」をどのように防衛するかである。そのリアクションが、民主党政権下であれば「絆」キャンペーンとなり、自民党政権下であれば「改憲(主権回復)」キャンペーンとなる。ロウソクを並べて祈ろうが、戦車にまたがって吠えようが、おおきな違いはない。ナショナリズムの醸成だけが現在の社会的危機をのりきる方策である。そして問題の真の焦点は、彼らが何を訴えているかではなく、彼らが何を言わないでいるかだ。時代錯誤のナショナリズムによって、なにをごまかそうとしているかだ。自民党が(または民主党が)大衆の支持を集めるとき、それは彼らの主張ではなく、彼らがある課題をけっして言わないでいることを支持している。つまり、放射能汚染の危機である。

 20113月の初期被曝とその後2年間の物品流通によって、日本に暮らす多くの住民が被曝した。人口の三分の一以上が(程度の差はあれ)被曝者になった。
 被曝者は二つの脅威にさらされ、二つの異なる機制に引き裂かれる。
 ひとつは健康被害の脅威である。被曝者は健康被害を避けるために、放射能汚染の実態を調べ、これ以上の被曝をしないよう衛生に努める。
 もうひとつは差別の脅威である。被曝者は、自分が被曝者であることによって差別されないために、汚染の話題を避ける。自分がいつどこでどれだけ浴びたかということは、他人には知られたくない。ここで彼がもとめるのは無関心による調和である。
 被曝者は誰よりも詳細に被曝のメカニズムを知らなければならないが、同時に、それを公然と口にするわけにはいかない。だから、汚染地域において、放射線防護は隠然と実践され、公的な言説としては、問題の否認による「国民の調和」を要求することになる。
 2011年以降の日本のナショナリズムは、深く傷を負ったナショナリズムである。
 
 チェルノブイリ事件において大きな被害を被ったベラルーシは、極端な右翼政権になり、原子力政策を推進しているという。ベラルーシの政治がなぜそのようなことになったのか、詳細はわからない。私たちもまたその過程を目の当たりにするだろう。その次元で、ナショナリズムの廃棄を考えなくてはならない。



(注1)東京新聞を除く