2013年7月28日日曜日

たちよみ 『被曝不平等論』


以下は、2012年7月に『現代思想』誌に寄稿したものの一部です。「被曝と暮らし」という特集に向けて、私は『被曝不平等論』という原稿を出しました。あれからもう一年も経つわけですが、あまり読まれていないようなので、後半の部分だけ抜粋して転載します。
前半は、技術的な分析、後半は社会的な分析となっています。

全文を読みたい方は、ぜひ本誌を買うか、図書館にリクエストするかしてください。


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被曝不平等論
                                矢部史郎

・放射能は差別しない?    
(略)
・希釈神話
(略)
・食品の希釈神話
(略)


・防護対策と主婦

 福島第一原発が拡散させた放射性物質は、東北と関東、中部地方の一部にも到達した。
この地域に暮らす住民は、三種類の経路で被曝する。土壌に堆積した放射性物質から浴びる外部被曝、塵やガスを通じてとりこむ吸入内部被曝、水や食品を通じてとりこむ経口内部被曝である。汚染された地域以外では、流通による二次拡散が進行している。震災がれき、リサイクル建材、農業資材、食品、医薬品が、放射性物質を運ぶ。非汚染地域で警戒されているのは、主に食品を通じた経口内部被曝である。
 政府の防護対策はまったく不充分である。一般人の許容被曝線量を年間1ミリシーベルトとしたものの、外部被曝と吸入内部被曝と経口内部被曝をそれぞれどのように評価し管理するのかについて、まったく何もできていない。(3)
 防護対策が無政府状態に陥ったなかで、市民は活発に動きはじめている。全国で市民測定所がつくられ、汚染の実態と対処の方法がインターネットをかけめぐっている。そのなかで防護対策を牽引する最大の主体となっているのは、主婦である。
なぜ主婦なのか。考えられる理由は四つある。

理由の第一は知性である。
放射線防護対策の具体的な実践は、炊事・掃除・洗濯・育児といった家事の領域での作業である。主婦は日常的に家事を担っているから、こうした作業の実際をよく知っているということがある。
主婦は毎日毎日倦むことなく(あるいは倦みながら)食事をつくり、家族の栄養管理を行っている。だから、微小な物質の蓄積が人間を活かしたり殺したりすることを知っている。放射性物質は目に見えないモノだが、これも主婦にとってはとりたてて珍しい話ではない。細菌、ウイルス、食品添加物、農薬、アレルギー原因物質、組み換え遺伝子、紫外線等々、目に見えないモノなど生活のなかにはいくらでもある。もしも「目に見えないから対処できない」とサジをなげてしまうなら、乳幼児の健康管理などとうていできないだろう。
非汚染地域の主婦が防護対策に取り組んでいるのは、それが日常の栄養管理や衛生管理を拡張することで対処可能だと見切っているからである。また、汚染地域から主婦が退避を決断するのは、彼女が防護対策の実現可能なラインを具体的に見定めているからである。彼女たちの防護対策を推し進めている第一の要因は、知性である。

第二は責任意識である。
 主婦は、望むと望まざるにかかわらず、家族の健康に責任を負っている。あるいは、責任を押し付けられている。家族の誰かが病に倒れたとき、あるいは介護が必要になったとき、その面倒な作業を担うのは主婦である。ここで「主婦」というのは、結婚している女性に限らない。例えば東京のある女子学生が危惧するのは、もしも自分の親が病に倒れたとき、おそらく弟たちは親の世話をすることを放棄してしまい、自分だけが看護の一切を担わされるだろうということだ。とくに裕福な家庭でないかぎり、看護や介護の働き手は家庭内の女性に押し付けられる。彼女は結婚しないまま一家の「主婦」となり、そのことで就職や結婚の機会を失うだろう。そうした事態を現実にありうることとして想定するか否かが、彼女と弟たちを隔てている認識の違いである。ようするに「主婦」とは、家族に不測の事態が起きたときに、その尻拭いのアンペイドワークを予約指名されている者である。
被曝医療の「専門家」あるいはICRPWHOが、放射線による健康被害は「少ない」と予測するとき、その「少ない」患者の世話を彼らが責任を持って担うことは想定されていない。その被害の結果については、患者の家族の誰かが付き添い無償で働くことを予め前提にしているのである。実際に患者が多かろうと少なかろうと、彼ら「専門家」が看護に忙殺されることはない。悲しみもなければ自責の念もない。彼らは「リスク」という言葉を好んで使うが、リスクを引き受けるのは自分以外の誰かだろうとあてにしているから、あんなにヘラヘラした態度をとれるのだ。
 主婦は、家族に何かがあったとき一切を引き受ける者である。危機を吸収する緩衝材であり、モノにたとえるなら自動車のバンパーである。彼女は、たとえ自分の責任でないことであっても、自責の念を抱きつつ無償で働くことを強いられるのである。この負荷が、主婦たちを防護対策に駆り立てている。

第三は差別である。
主婦は差別に慣れている。これは差別を容認しているというのとは違う。差別を知っているということだ。他人から馬鹿にされたり見くびられたりすることは、主婦にとっては日常である。家族から馬鹿にされることも、傷つくことではあるが、それほど驚きはない。老練な主婦から見れば想定の範囲内だ。
今回の事件で、主婦に対する差別意識をもっとも体現していたのは、広告産業である。もともと主婦は消費者として広告に慣れ親しんできた。美顔、デトックス、アンチエイジングなどの健康・美容情報を発信してきたのは広告会社であり、主婦はその情報を身近において利用してきたのである。その広告会社がある日突然、放射能を怖れず受忍せよ、と言いだしたのだ。これはあまりにも極端な手のひら返しであり、広告という事業の差別的性格を剥き出しにした瞬間であった。広告会社のアドバイスに従うなら、世の女性たちは紫外線についてぬかりなく警戒しなければならないが、放射線については受忍しなければならない、ということなのだ。これほど人を馬鹿にした話があるだろうか。これほど大掛かりであからさまな差別を私は今まで見たことがない。
差別された者は差別する者を信用しない。主婦は差別を知っていて、すぐにばれるような嘘をぬけぬけという人間を見慣れてもいるから、どういう人間を信用してはいけないかを知っている。放射能問題のさまざまな論争の過程で、政府や「専門家」の言説が次々に無効化されてきたのは、主婦が誰の言葉も信じないからである。主婦はすぐに「わからない」と言う。充分にわかっているときでも、いやわかっているときにこそ、「わからない」と言う。彼女がいきいきとした顔で「わからない」と言うとき、それはようするに「お前の口先など信用しない」という通告である。彼女たちがもつ「人を信じない」というハビトゥスは、さまざまな議論の重しとなり、盾となり、人々の混乱する意識に指標を与えてきた。これが防護対策を推進する力の一つである。

 第四に時間感覚である。
再生産(労働力の再生産)に携わる者は、時間の射程が長い。賃労働というものが基本的にその場限りの契約であり、商品経済の短期的な売買の一部にすぎないのに対して、再生産に関わる労働はきわめて長期にわたる生活経済のなかに埋め込まれている。一人の子どもを出産し、育て、一人前にするまで、20年前後の時間がかかる。引退した老人の世話をして送りだすまで、やはり育児と同じだけの時間がかかる。再生産労働は、もう嫌になったと心変わりをしても簡単にやめることができず、相当の長期にわたって関わり続けなければならない労働なのである。極端な言い方をすれば、賃労働者が時間のないユートピアを生きて時間感覚を喪失してしまっているのに対して、主婦は時間のなかに生きて時間を対象化している。例えば、セシウム134がほぼ消滅するための時間は半減期2年の10倍として20年であるが、この20年という時間を具体的な人間の時間としてイメージできるかどうかという違いだ。あるいは、10年後か15年後かに顕在化するだろう晩発性障害は、時間を忘れた鶏のような意識にとってはまったく見当のつかない話だろう。「そんな先の話は考えてもしょうがない」と。しかし、主婦にとって15年後というのは、充分に手の届く未来なのである。


・被害予測に埋め込まれた搾取
 ここまでに、主婦がもつ知性、責任意識、社会(男性中心主義社会)との敵対性、時間感覚について述べた。人工核種が人体に与える影響について、被害は軽微だろうと楽観する者たちは、主婦たちの防護活動を揶揄しつつ、実際には、彼女たちの防護活動をあてにしている。彼らは決して「防護は不要だ」とは言わない。防護の必要を認めつつ、「考えすぎだろう」と言うのだ。あるいは、「被害は多くないだろう」とは言うが、「被害はまったく出ないはずだ」とは言わない。「被害はまったく出ない」と言ってしまうと、防護対策は不要だということになってしまうからだ。
もう紙数がないので煎じつめて言うが、被害予測を過小評価する者たちは、ようするに、「防護対策は必要だが俺はやりたくない」と言っているのである。防護対策には費用も労力もかかる。身近な人間関係に軋轢を生む。長い時間を想像し、自分がこれから生きるだろう人生について深く考えなくてはいけない。そういう面倒な作業を、自分はやりたくないと言っているのだ。
放射線防護活動に働く人々は、悲観的な被害予測をたてている。この被害予測は、はじめから裏切られるべき予測としてたてられていて、10年後にあらわれる現実が予測を少しでも下回るために防護活動にいそしむわけだ。彼女たちが働いた成果は、社会全体に恩恵を与えるだろう。彼女たちが働けば働くほど、現実は想定した悲観的予測から離れていき、「被害は軽微だろう」とあぐらをかいている者たちの予測に近付いていく。彼女たちは自分自身の権利のために働くだけでなく、彼女を嘲笑して何もしない寄生者の権利のためにも働くことになるわけだ。
ここで「被害予測」とは、純粋に自然科学の領域での学説や論争というものではなくなっている。「被害予測」は、防護活動を担うのかそれともタダノリするのかという政治的駆け引きの道具になっている。市民の自主的な防護活動が揶揄や嘲笑にさらされるのは、その活動が不要だからではない。その活動に正当な評価を与えないことで、タダノリを正当化するためである。「放射能なんて俺はまったく気にしない、女房が勝手にやっているだけだ」と言えば、その一言を言うだけで、彼は面倒な作業を免除されて、安全な食事という成果だけを受け取ることができる。政府が楽観的予測をたてるのは、その予測を強弁して防護活動を非公式なものにとどめておくことで、市民のもつ資源を際限なく引き出し、本来てあてすべき予算措置をとぼけることができるからである。楽観的な「被害予測」というのは、防護対策に先だって、防護対策から独立してたてられているのではない。防護対策をどれだけ引き受けないで済ませるかという利己的な動機によって、「予測」が導かれている。この「予測」は、防護作業に関わる搾取のプロセスの一部となっているのである。
 この搾取の構造は、いまに始まったことではない。これは資本主義がもつ普遍的な構造であり、第二次大戦後の「原子力資本主義」が資本蓄積をはたすために強化してきた政治的枠組みである。乳児死亡率が下がり、教育が高度化し、再生産労働が飛躍的に発展していくのと比例して、主婦の社会的評価は下落し続けてきた。主婦の働きを正当に評価しないこと、それを公的な問題として扱うのではなく「私的」な問題に押し込めておくこと、公式ではなく非公式なものにとどめておくことが、資本蓄積の第一の条件だからである。主婦を貶め、主婦の働きにタダノリすること、この搾取を正当化するイデオロギーが階級や政治的「左右」を横断して国民的合意にまで高められることで、現代の現代的な資本蓄積が完成するのである。
 放射性物質の拡散は、この搾取の一般的構造を前景化させている。いまもっとも精力的に働いているのが主婦であり、同時に、もっとも貶められているのも主婦である。主婦に対するバッシングは、階級も政治的「左右」も超えて、社会全体に及んでいる。だから「推進派」はもちろんのこと、「反原発派」を自認する者や「左派」を自称する者たちからも、主婦の働きは正当に評価されず腫れものになっているわけだ。主婦にむけられた道徳的な断罪や貶めに加担する者が、「左派」や「女性学」を自称するなかにも紛れ込んでいる。彼らは、性差別の構造も資本主義の構造もまったく理解していないニセモノである。ニセ左翼やニセフェミニストは、主婦をたたくことが道徳的義務であるかのように勘違いをしているが、こうした振る舞いこそ言葉の正しい意味で「ブルジョアイデオロギー」と呼ぶべきものだ。それは、再生産を担うことの重責を放棄し資本主義との対決を回避したいという、自らのおびえを表明しているにすぎない。ニセモノたちがやっている主婦バッシングとは、敵前逃亡を体よくみせるための口実なのである。
 

最後にもういちど不平等の話をしよう。
被曝を受忍すると言う者は、被曝が平等ではないという事実を忘れている。それに加えてもう一つ彼らが忘れたふりをしているのは、この社会がけっして平等な社会ではないということだ。我々が生きている社会は、差別と搾取と不平等に満ちているということを、彼らは忘れたふりをしているのである。
 この原稿を書いているあいだに、私は愛知県のある大学で特別講義をした。社会福祉士を目指す学生たちのゼミだ。三回の特別講義の一回目では、放射線被曝に関するテキストを読ませ、40人の学生を4人づつのグループに分けてディスカッションをさせた。ここで私は次のような問いを投げた。

「いまから四年後に、皆さんは大学を修了し、社会福祉士の資格をとり、無事に就職することができたとします。就職してまもなく、職場の上司があなたに転勤を打診してきました。福島県郡山市で職員が不足している。無理強いはしないが、もし可能なら郡山に行ってくれないか、と。あなたは行きますか?」

 それぞれのグループで、行くか行かないかを討論させた。20分ほどの討論の結果、学生の半数が、郡山に行くと言った。この結果に私は困惑し、さらに不利な条件を追加した。

「実はその職場では、昨年度も郡山に職員を派遣していました。君たちの先輩が三人派遣され、三人とも一年で辞めてしまいました。体を壊したか給料が安すぎたのか、理由はわかりませんが、ようするに使い捨ての人員です。その穴埋めのために君たちは転勤を打診されたのです。行きますか?」

結果は変わらなかった。学生の半数はそれでも「行く」というのだ。
社会福祉士を目指す者の資質として、この自己犠牲の精神は必要なものかもしれない。しかし私が彼らに教えなければならないのは、自己犠牲ではなく、自分自身を大切にする権利意識である。「行く」という学生がいるのはいい。しかしおそらくそのなかには、「私は行かない」と言えないでいる学生が含まれている。「私は断る」「私は行かない」と言えないために、「行く」と結論しているのだとしたら、それは学生の自己責任ではなく、教師の責任である。
これからの放射能時代を生きるために、教師が学生たちに教えなければならないのは、自分をまもる人権意識である。しっかりとした権利意識を持って危険な作業を断ることができる者は、相当の防護対策を実現できるだろう。自分の権利を知らず、権利を主張できない者は、選択的に放射能を浴びせられることになるだろう。これはかつての戦争に似ている。「被曝を受忍しよう」と号令をかける老人は、実際にはたいして被曝しない。老人はずっと後方の安全地帯であぐらをかき、本物の放射能戦争を見ることがない。そして、自分の権利を主張できず人権を圧迫された若者と女性たちが、汚染地帯に赴き、あるいは汚染地帯にとどめおかれ、ケタ違いの放射能を浴びせられるのである。
 特別講義の二回目に、私は学生たちに次のような宿題を出した。

「みなさんがいま利用している学生食堂の食材について、生協はどんな防護対策をとっているか、調べなさい。この大学の保健管理を担当する部署に行き、放射線防護の取り組みと考え方を調べなさい。大学が学生の防護をどう考えて何をやっているのか、あなたたちにはそれを知る権利がある。対策に不明な点や矛盾する点があれば、自分が納得できるまで何度でも詳細に問い合わせてください。」

「国民全体で被曝を受忍する」と言うときに、国民が平等に被曝するわけではない。「みんなで分ちあう」なんてのは、まったくデタラメなおとぎ話である。

放射能を浴びせられた社会は、もとからはらんでいた差別と搾取を露出させ、強化していく。社会はこれまで以上に分化し、バラバラになり、敵対性を深めていくはずだ。いま私たちに必要なのは放射性物質をめぐる科学であると同時に、この分化した社会と対峙し、生きぬくための人権意識である。