2013年10月26日土曜日

ポスト近代、または「原子力都市」としての名古屋




 今日は、東京から避難した前瀬くんの引越しを手伝った。私の姉が提供してくれた客用の布団ひと組と、東京から持ってきた大きなスーツケースを車に積み、名古屋市内のワンルームマンションに運び込んだ。

 彼の口から出る言葉は、良い意味で緊張感がみなぎっていた。この二週間、彼は名古屋市内を散策し、毎晩うちに帰ってきては酒を飲みながら意見を交わした。はじめの数日間、彼は放射線被曝のストレスから解放され、おおいにはしゃいでいた。次に、名古屋が意外に利便性の良い暮らしやすい街であることを知り、喜んだ。そうして二週間たったいま、名古屋という都市のもつ恐ろしさに気がついた。

 名古屋は都市文化の成熟を許さない街である。ここで多くの人々が錯覚するのは、名古屋が「田舎」であるという表面的な印象である。名古屋は「田舎」だから文化が未熟なのだ、と考えてしまう。そうした見方は、原因と結果を取り違えている。名古屋という都市には、人々の意識を眠らせ、都市文化を未熟なままに留めおくための物質的・イデオロギー的装置があって、その結果として「田舎」という印象が生まれるのである。たとえるなら、映画『マトリックス』が描く人間電池のように、人々は眠りながらユートピアを生きる。東京と名古屋を比較した時に、名古屋の人々が人間的に幼く未熟であるというのは、その文化が東京よりも「遅れている」からではない。そうではなくて、名古屋は東京に先んじて、ポスト近代の都市を実現しているために、人々はいつまでも幼いままに留めおかれるのである。文化が「進んでいる」とか「遅れている」というときに、その時間軸を反転させて考えなければならない。「名古屋には近代の熱がなく、傷もない」というのは、この都市がはるか昔にジェントリフィケーションを完成させ、近代を精算したからである。ここにはもっとも進化したユートピアがあり、ディストピアがある。



 放射能汚染から逃れるという意味で、前瀬くんは安全地帯に撤退することができた。
しかしそれとはまったく別の意味で、彼は「原子力都市」の最前線におどりこんでしまった。
 大変だ。