2013年5月25日土曜日

原子力機構の犯罪

実験中に放射性物質発生 4人被ばく

茨城県東海村にある日本原子力研究開発機構の実験施設で23日、金属の金に特殊なビームを当てて素粒子を発生させる実験中に装置が誤作動して放射性物質が発生し、分かっている範囲で、男性研究者4人が被ばくしました。23日午前11時55分ごろ、茨城県東海村にある日本原子力研究開発機構の素粒子を発生させる実験施設で、金属の金に特殊なビームを当てて素粒子を発生させる実験中に、装置が誤作動してビームの出力が通常の400倍に上がり、金が高温になって蒸発して放射性物質が発生しました。この事故で、分かっている範囲で22歳から34歳の男性研究者4人が放射性物質を体内に取り込んで内部被ばくし、外部からの被ばくを合わせた被ばく量は、最大でおよそ2ミリシーベルトでした。4人は自宅や宿舎に戻っていて、日本原子力研究開発機構は「健康への影響はないと考えている」と説明しています。また、施設に出入りしていた合わせて55人について、今後、被ばく量を調べるということです。施設内の汚染は、最大で1平方センチメートル当たりおよそ30ベクレルで、23日から立ち入り禁止になっています。この施設は現在、停止していて、敷地境界で放射線を測定しているモニタリングポストの値に変化はなく、外部への放射性物質の漏えいはないということです。一方、実験施設の近くの施設のモニタリングポストでは、23日の午後3時すぎから6時近くにかけて、通常、1時間当たり70から130ナノグレイを示している値が、一時、10ナノグレイ程度上がったということです。
(5月25日、NHK)

 まだ汚染の詳細はわからない。ここでは1平方センチメートルあたり30ベクレルとされているが、別の報道では40ベクレルという記事もある。

 ここで注目したいのは最後の段、モニタリングポストの信ぴょう性である。

 通常、金は197で安定している。
放射性金は、金195、金196、金198、金199である。
このうち金195と金196は、崩壊の際にベータ線とガンマ線を放出する。
金198と金199はベータ線のみを放出する。
 今回陽子ビームを照射して発生した放射性金のうち、なにがどれだけ発生したかは、発表されていないのでわからない。問い合わせの電話をしたが、つながらない。もしかしたら研究者も把握していないかもしれない。
 この放射性金をめぐって問題になるのは、汚染の測定方法である。
 施設内の研究者は表面汚染検査計(ガイガーミュラー計数器)によって汚染を検査している。この方法なら、金195から金199まですべての放射性金をカウントすることができる。
他方、施設外部の汚染状態については、モニタリングポストで済ませてしまっている。モニタリングポストはガンマ線のみをカウントするシンチレーション方式だから、金198と金199についてはカウントできない。これではまるで検査をしていないのと同じだ。


 金198の半減期は2.7日、金199の半減期は3.2日である。放射性ヨウ素よりも早い頻度で崩壊し、半径2メートル以内にある生物にベータ線を撃ち込んでいく。規制庁が事故を公表した時点ですでに2日ほどたっているから、約半分は崩壊してしまった。


続報

http://j-parc.jp/researcher/ja/safety/HDtrouble20130525.pdf

発生した核種が報告されている。
スペクトルを見るとたくさんあるのだが、
「内部被曝に影響を及ぼしている」として強調されているのは、

水銀197、
カリウム43、
金198、
水銀195、
ナトリウム24。


カリウム43ってなんだよ。聞いたことないよ。困るなこれは。

2013年5月16日木曜日

傷としてのナショナリズム




 「日本維新の会」共同代表で大阪市長でもある橋下某というタレント政治家の発言が問題になっている。沖縄の米兵による暴力事件に触れて、「風俗産業を活用してもらって」云々という発言である。発言の詳細は不愉快なので書かないが、沖縄の基地問題から性暴力事件だけを抜き出し、さらには性暴力の問題を性欲の問題に還元するという、問題を著しく矮小化した発言である。あらためて確認しておくが、性暴力の問題は「性欲の解消」の問題ではない。そんな簡単な思いつきの「解決策」で、人間や社会の暴力がなんとかなると本気で思っているのか。こういう思慮の浅い思いつきを、なんて言うの? 「ソリューション」って言うの? まったく。橋下はとっとと辞職して、サラ金屋のコンサルでもやってろ。

 橋下某の話をしているときりがないので、本題にはいる。
 今回の橋下発言で想起されるのは、放射能拡散直後に、原子力機構の広報が行った差別事件である。
 原子力機構のホームページは、「放射線」「放射性物質」「放射能」という用語の解説で、放射能を「怒っている奥さん」に喩えたのである。「放射線・放射能を夫婦喧嘩にたとえた場合」、「奥さんの怒鳴り声が放射線」、「怒って興奮している奥さんそのものが放射性物質」とイラスト入りで説明した。この表現は大問題になりホームページから削除されたのだが、この差別事件で明らかになったのは、原子力機構という組織が誰に向けて広報をしているかということである。
 常識的に考えれば、放射線防護に関心を寄せ、防護対策(家事労働)の主体となるのは女性であるから、広報は主に女性に向けて問題を説明しなくてはならない。放射線防護を解説したブックレットはたくさん出版されているが、ほとんどは女性(主婦)に向けて書かれている。しかし原子力機構は逆のコースをとった。彼らは、防護対策の主体にならないだろう男性に向けて、広報をしていたのである。「奥さんがヒステリー」と言ってウケる相手に。そんなやりかたが「広報」と言えるのかという大きな疑問があるのだが、原子力機構が広報の対象とする社会とは、男だけで談合すればなんとかなる「社会」を想定していたらしい。女と話す気などハナからなかったのだ。
 これは言い方を換えれば、合意形成をはかるべき「社会」の範囲を、男性に限定したということである。放射能汚染公害という「国難」に際して、原子力機構は、女性や外国人の意見を排除すべく、彼らの「身内」である自民族男性を固めたのである。なぜなら、一般的に言って女性や外国人は、彼らよりはるかに多くの知識をもち、事態の深刻さを知っているからである。合意形成に彼女たちを交えてしまったら、原子力機構の望む統制は不可能だからである。

 現在の保守系政治家の発言が、ナショナリズムを色濃くしているのは、2011年に始まる放射能公害事件と無関係ではない。
 かつて90年代、新自由主義政策のしわ寄せをもっとも被ったのは若年・女性労働者だったが、彼ら非正規労働者や失業者の声はマスメディアから完全に排除されていた。なぜなら新自由主義政策の嘘と矛盾をもっともよく知っていたのは若年・女性労働者だったからである。正規職に付けない若者の問題は、精神の問題にされ、「自己責任」だと喧伝された。正規労働者は事態の深刻さを直視しないために、若者たちの貧困を黙認した。それと同じことが、いま矛先を変えて繰り返されている。
 2011年以後、ブルジョア政治家とブルジョアマスコミ(注1)が追求するのは、放射能公害事件が引き起こす経済的政治的危機から、彼らの「社会」をどのように防衛するかである。そのリアクションが、民主党政権下であれば「絆」キャンペーンとなり、自民党政権下であれば「改憲(主権回復)」キャンペーンとなる。ロウソクを並べて祈ろうが、戦車にまたがって吠えようが、おおきな違いはない。ナショナリズムの醸成だけが現在の社会的危機をのりきる方策である。そして問題の真の焦点は、彼らが何を訴えているかではなく、彼らが何を言わないでいるかだ。時代錯誤のナショナリズムによって、なにをごまかそうとしているかだ。自民党が(または民主党が)大衆の支持を集めるとき、それは彼らの主張ではなく、彼らがある課題をけっして言わないでいることを支持している。つまり、放射能汚染の危機である。

 20113月の初期被曝とその後2年間の物品流通によって、日本に暮らす多くの住民が被曝した。人口の三分の一以上が(程度の差はあれ)被曝者になった。
 被曝者は二つの脅威にさらされ、二つの異なる機制に引き裂かれる。
 ひとつは健康被害の脅威である。被曝者は健康被害を避けるために、放射能汚染の実態を調べ、これ以上の被曝をしないよう衛生に努める。
 もうひとつは差別の脅威である。被曝者は、自分が被曝者であることによって差別されないために、汚染の話題を避ける。自分がいつどこでどれだけ浴びたかということは、他人には知られたくない。ここで彼がもとめるのは無関心による調和である。
 被曝者は誰よりも詳細に被曝のメカニズムを知らなければならないが、同時に、それを公然と口にするわけにはいかない。だから、汚染地域において、放射線防護は隠然と実践され、公的な言説としては、問題の否認による「国民の調和」を要求することになる。
 2011年以降の日本のナショナリズムは、深く傷を負ったナショナリズムである。
 
 チェルノブイリ事件において大きな被害を被ったベラルーシは、極端な右翼政権になり、原子力政策を推進しているという。ベラルーシの政治がなぜそのようなことになったのか、詳細はわからない。私たちもまたその過程を目の当たりにするだろう。その次元で、ナショナリズムの廃棄を考えなくてはならない。



(注1)東京新聞を除く

次回の被曝社研

 次回で三回目になる被曝社会研究会、6月29(土)~30(日)で、合宿所の予約をとりました。参加者にはあらためて連絡します。

 
れじゅめは制限なしでゆるくやっているので、自由に持参してください。


 私は『衛生と差別』というテーマで、れじゅめを準備しようと思っています。
 この間の放射線防護活動をめぐって、「差別・反差別」ということが議論されてきたと思いますが、このあたりでいまいちど整理しておかなければならないことがあるだろうと思います。
 国やメディアが放射能安全神話を展開しているなかで、しばしば放射線防護を無視した「反差別論」が見受けられます。被曝被害を受忍し忘却するようなベクトルで、もっぱら火消しのために「反差別」論が利用されるとするならば、そうした策動にはきちんと対抗しておかなければならないだろう、と。
 そういうわけで、前回以上にヒリヒリした刺激的な意見交換になるかもです。

2013年5月14日火曜日

「復興」政策の現実的検討




 政府の「復興」予算の多くが被災地と無関係な地域で使われていることが、明らかになっている。これはこれで問題なのだが、より切迫した問題として注目しなければならないのは、被災地での「復興」事業が進んでいないことである。国の付けた予算が充分に使われない(または使えない)ということが起きている。この「復興の遅れ」は、初動の問題ではなく慢性化するだろうと思われる。
 そもそも今次の震災「復興」は大きな困難がつきまとう。まず規模が甚大である。震災被害を除いて津波被害だけを見ても、岩手から千葉まで五つの県にまたがっている。次に、被災地の多くが、一次産業に依存する周辺的地域ということがある。被災地の多くは、もともと経済的に豊かな地域ではなかった。新自由主義政策が地方経済を切り捨ててガタガタにしてきたところに、この津波が襲ったのである。そして「復興」政策を号令する政府は、新自由主義政策を転換することなく、従来と同様の低開発構造を残している。もともと産業がジリ貧であったところに、さらに大きな負債を抱えさせて、経済を「立て直せ」というわけだから、これほど困難なことはない。
 さらにここに放射能公害が加わる。放射性物質による海洋汚染と土壌汚染は、一次産業にとっておおきな逆風になっている。

 一見すると、「復興」政策の大きな障害は、放射能汚染であるように見える。実際に放射線防護を追求する人々は、東北・関東の食品の不買を継続している。このことから、「復興」政策と放射線防護活動との対立的関係ははっきりと浮かび上がっている。
 しかし、もう少し慎重に考えてみるべきは、そもそも国の「復興」政策が、現実的な方策であったかどうかという問題である。放射能汚染問題を抜きにしても、はたして「復興」や復旧が可能なのか。そのためにはどのような措置が必要であるのか。被災地の「復興」または復旧のために、現在の経済政策は充分なものと言えるのか。
 おそらく「復興」は失敗する。そして「復興」政策の失敗の多くは、放射線防護活動のせいにされるだろう。そうした側面があることを否定するつもりはない。しかし、国がおかした政策的失敗をごまかすために、放射線防護がスケープゴートにされるのだとしたら、それにたいしては断固として否と言う。なんでもかんでも俺らのせいにするんじゃねえよと。そもそも無謀な精神論で「復興」を言い出したのは国じゃないか。そっちの失敗の責任まで我々が引き受けるつもりはない。「放射能恐怖症のために復興が進まない」と考える人がいるとしたら、そのうち一割ぐらいは認めるが、九割はお門違いだと言いたい。

2013年5月1日水曜日

内臓を切るってのは痛いね




 今日、名古屋大学病院から退院。
 4月23日の手術から約一週間、病院にいたわけだが、留置場に三週間勾留されたときより辛かった。
 闘病ということの壮絶さを垣間見た気がする。私の場合は良性腫瘍の摘出だったから、闘病というほどのものでもないのだが、それでも内蔵を切るというのは痛い。こんなに痛いとは思わなかった。

 手術後まず一日目は、全身麻酔が抜けるのが辛い。体中に管をつながれて酸素マスクをして身動きできない状態で、浅い呼吸で悶絶しながら麻酔が抜けるのを待つ。二日目に酸素マスクがはずされ、四日目には背骨に差し込まれた硬膜外麻酔の管が抜かれ、六日目には尿管と尿道に挿入されていた管を抜かれた。七日目には縫合した脇腹から出血を取り出す管がはずされ、最後に左手首につけられた点滴の針が抜かれた。
 つまり入院している間ずっと、体から何本かの管を伸ばした状態で過ごす。そうして、点滴や尿バッグをくくりつけたパイプにつかまりながら、ヨロヨロと歩くわけだ。歩くといってもほとんど歩けない。切られた内蔵が痛むから、腹筋に力を入れられないのである。

 被曝による健康被害を議論するなかで、「ガンは日本人の三人に一人はかかるありふれた病気だ」という人がいる。
で、それが、なんなのか。
そんな超然とした言い方をして、理性が身体を克服したかのように振る舞うのは、まったく馬鹿げた錯覚だ。人間は身体を生きて、痛みを生きているのだから。痛いものは痛いし、涙が出るほど辛いのだ。

 左手首にはまだノリがこびりついている。点滴の針を固定するテープのノリが、まだ取れないでいる。急いで洗い落とすことはしないでおこうと思う。