2013年11月15日金曜日

大友良英のなにがダサいか



 大友良英、遠藤ミチロウ、和合なんとかというのがやっている「プロジェクトFUKUSHIMA!」について、検討した。ボイスレコーダーを用意して、私と山の手緑とでコメントを収録。これから文字に起こして文章化する。
 “矢部史郎+山の手緑”という名義で文章を出すのは、たぶん10年ぶりになる。まずは肩慣らしに大友良英と遠藤ミチロウをやりだまにあげる。プロジェクト「FUKUSHIMA!」の問題を一言で言えば、「みんな、ひとつになろうよ」的な、幼稚な基調にある。無能が頭数を揃えてひとつになったところで、放射能との闘いは前進しない。福島復興などできようもない。
 この無能たちによる失敗は、「アーティスト」を自称したからといって免罪されるものではない。そもそもアートが人々に教えるのは、「みんながひとつになる」みたいな学校くさい話ではない。アートが教えるのは、「誰もがひとりになることができる」という孤立の技法である。人々がアーティストに敬意を示すのは、彼がただひとりの者として力を表現するからだ。

 いまアーティストが言うべきは、「みんなひとつになろうよ」ではなく、「たったひとりになれ」だ。孤立することは無力になることだというのは、学校が教える迷信だ。現実はその反対に動いている。
 孤立は力の源泉である。
 大友や遠藤は、このことを知らない。


2013年11月13日水曜日

『風景の死滅』と海賊


 献本を二冊いただいたので、紹介します。




『風景の死滅 増補新板』 松田政男著 航思社

 1970年代、時代を切り裂いた伝説の書『風景の死滅』。復刊です。
 田畑書店から刊行されたオリジナル版に、雑誌『映画批評』の論考などを加え、増補新版として刊行されました。表紙オビの写真は中平卓馬氏。平沢剛氏の解説も戦闘的。
 2004年に雑誌のインタビューで出会って以来、松田政男氏にはさまざまなかたちで支援していただいた。2008年の洞爺湖サミット反対行動は、実はその背後で松田氏が協力していたと書いたら驚く方もいるかもしれない。活動家の中には「だまされた!」と怒り出すむきもあるかもしれないが、事実としてはそうだ。老アナキスト松田政男は21世紀に入ってもなお現役であった。私は松田氏と距離をとってつきあってきたつもりだが、まったく影響を受けなかったというと嘘になる。彼はひとから見えないところで動き、短く決定的な助言をのこす。権力の現代性を深くえぐりだす。私の原子力都市論や海賊研究も、彼の「風景の死滅」論と無縁ではありえないだろうと思う。







『海賊旗を掲げて ――黄金期海賊の歴史と遺産』 ガブリエル・クーン著 菰田真介訳 夜行社

 以文社から発売された『海賊ユートピア』につづき、海賊研究第二弾。
 アナキストはなぜ海賊に共感し、海賊になにを見出すのか。
 かつてナチズムに抵抗する青年運動が「海賊団」を名乗った時代があり、大戦後には「海賊出版」と「海賊放送」に精力を注いだ時代があり、さらに現代のアナキストは著作権侵害(パイラシー)とハッキングに磨きをかける。いったい海賊のなにが継承されてきたのか。フーコーやドゥルーズ/ガタリなど現代思想の分析枠組みを利用しながら、海賊からアナキストへの思想的系譜を探る試み。
 ちなみに著者のガブリエル・クーン氏は、2008年の洞爺湖サミットの際に来日していた。知らなかった。クーン氏は直接行動派が集う対抗キャンプでサッカーをして遊んでいたらしい。いまから考えればちゃんと席を用意して講義してもらえばよかったのかもしれない。が、革新的な研究者が実践においてはでしゃばらず地味に動いたりするのがアナキストの美徳。彼は本物だ。










『風景の死滅 増補新版』で解説を書いた平沢剛氏が名古屋に遊びに来たので、海賊翻訳者の菰田氏を呼び出して飲み会をした。前瀬氏と山の手氏も加わり、ひさしぶりに普通の飲み会ができた。
 この2年半、放射能汚染の緊張のなかで、われわれはみなバラバラになっていた。バラバラになった者がそれぞれの孤独を経て再び出会うのは、楽しい。
 今から40年前、ルンペンプロレタリアート永山則夫が列島を彷徨ったのとは別の仕方で、いま私たちは列島を移動している。風景ははるか昔に死滅していて、海のように平滑な都市がひろがっている。私たちは平滑な空間に生まれ、育ち、「ふるさと」だの「風景美」だのとは無縁に生きてきた。だからいま、孤立することも再会することも自在にできるのだと思う。


おまけ 
平滑空間の名曲 ワールズエンドスーパーノヴァ


2013年11月1日金曜日

孫子、なぜ書くのか



 私自身について言えば、なにかを書く理由がなくなった。私がわざわざ書かなくても、わかっている人はわかっていて、各々のおかれた条件のなかで問題解決に向かっている。私がでしゃばって号令をかけるような状況ではない。また、放射能が危険だという話をいくら書いたって、読めない人間はなにも読めないわけだから、言うだけ無駄だ。
 事件から2年以上たって、切迫感が薄らいでいる。どうせ全員は生きられない。生きる者は生きるし、死ぬものは死ぬ。罪のない子供が殺され、見殺しにされ、殺した者たちが自分こそ被害者だと言い立てるのだ。まあそういう展開になる。
 状況を客観的にみれば、私が何かを書く理由はない。粛々と移住支援に取り組めばよい。ただそうした判断と同時に、もっと書こう、もっと書きたいという気持ちが高まっている。そんな必要はないのに。これはなんだろうなと考えながら、いま頭をよぎったのが中国の思想家孫子だ。

 孫子は、なぜ、兵法を書いたのか。書かなくてもよかったのに。なぜ彼は書いたのか。
 「孫呉の書」という。孫子(孫武)と呉子(呉起)の兵法書を並べて「孫呉の書」とか「孫呉の兵法」と呼ぶのだが、呉子がなぜ書かれたかという理由はわかる。読んでみれば一目瞭然なのだが、呉起というのはまったく深みのない退屈な話ばかりしている。本当は孫子と並べるのが失礼というぐらいレベルが低くて、だから呉起は書かなくてはならなかった。呉起は戦争というものがわかっていない。こいつはただ田舎の秀才が出世していばり散らしたいというだけの俗物根性でものを書き、同じく俗物の官僚がありがたがって読んだというだけの話だ。呉起は書く事じたいを目的として、書くことで目的を達成してしまっている。
 孫子は違う。孫子は、深い。彼は戦争を考え抜いた思想家である。戦争の時間、偶発性、伸るか反るかの瞬間を真剣に考えた。だから彼が書くものは一筋縄ではいかない矛盾に満ちたものになる。

 孫子は指揮権は絶対でなくてはならないと説く。指揮命令系統を軽視するものは斬首。ここまでは呉起と同じだ。しかし孫子は指揮権の重要性を力説した後に、それに反するようなことを言う。「水に常形なし」、戦闘の体勢は水のように柔軟にすべきだ、と。兵の運動を水のように流動させることだ。これは、本隊から離れ、散兵したある部隊において、指揮系統から自律して行動することがありうるということだ。「水が高きから低きに流れるように闘え」と。それはよいのだ、と孫子は言う。もう、迫力が違う。

 孫子は、確実に勝てるという勝算がなければ戦争をしてはいけない、と言う。「兵は国の大事なり」。しかしそれと同時に、「兵は詭道である」とも言う。戦争とは、敵を騙し意表をつくことだ。ということは、敵に騙されて想定外の展開にもちこまれることもあるわけだ。確実に勝てる戦争などない。慎重に慎重を期しても、どこに落とし穴があらわれるかわからない。
 この兵法書を忠実に読むならば、誰も戦争などできなくなってしまう。孫子は戦争に勝つための方法を書いているように見えて、実際には、戦争がいかに恐ろしく難しいものであるかを書いている。孫子がいまも読み継がれているのは、彼が誰よりも深く戦争を恐れたからだろう。彼の文章を読むと、自分がまるで戦場に立たされているような緊張感をおぼえる。孫子は、ただ命令をくだす軍師の視点からではなく、戦地にたたされる兵士の視点で、戦争を考えている。だから彼は「百戦百勝は善の善なるものにあらず」、最上の勝利は戦わずに勝つことだ、と言うのだ。

 もうひとつ。
 孫子13篇のなかで、あまり目立たないけれども心に残るのは、火攻篇である。この章では、火攻めを決行する条件を細かく指定したうえで、「敵の風上に火を放ち風下に向かって攻めよ」と説いている。なにをあたりまえのことを、とも思う。しかしこういうあたりまえのことを、孫子は書かなくてはならなかった。おそらく彼は目撃していたのだ。風向きを確認せず安易に火を放つバカ指揮官を。指揮官の無能のために火に包まれて死んだ若い兵士を、見たのだ。

 孫子はけっして戦争を美化しない。その反対に、戦争にたいする恐怖と怒りを吐き出している。
 火攻篇を書いたところで、死んだ兵士は生きかえらない。
「兵は詭道だ」と書いても、戦争はなくならない。
 しかし、孫子は書いたのである。怒りがおさまらないのだ。