2014年2月25日火曜日

主婦と不貞と放射線




 主婦にとって、不貞は休息である。
 なにを休むのか。
主婦の勤めを。つまり、妻として母として家族を愛し慈しむことを、いっときだけ忘れる。そうして彼女は自分のための時間を確保し、ひとりたたずむ。
 主婦の不貞行為は、表面的には男と女の恋愛感情の問題として理解されがちである。しかし本当はそうではない。夫がどういう男で、恋人がどういう男で、愛があるかないかなんてことは、副次的な問題にすぎない。男女間の感情は、不貞行為の結果であって、原因ではない。主婦の不貞行為を促すのは、男女の恋愛感情ではなく、彼女が主婦であることによって日常的に感じている責任と緊張である。

 「主婦に休日はない」という。これは、半分は本当だが、半分は違う。
 主婦はつねに家族のためにスタンバイしている。24時間365日、何があっても対応できるように彼女はそこにいなくてはならない。子供がある家庭ならば、子供が独り立ちできるまで、その緊張が不断に継続する。自分の時間などない。「主婦に休日はない」というのは事実である。
 そしてこのことを認めた上で「違う」というのは、主婦の不貞が例外的な現象ではないからである。主婦は意外に手を抜いている。平日の昼間に郊外のモーテルに行けば、そこがほとんど満室であることに驚くはずだ。そして、「平日昼間のフリータイム」というものが誰のために用意されているかを考えてみれば、その活動の深さと広がりを想像できるはずだ。
 ここで誤解がないように付け加えておくが、私は主婦の不貞行為をたんに擁護しようとか正当化しようとかいうつもりでこれを書いているのではない。そうではない。私が言いたいのは、主婦の不貞を道徳的に断罪したり、あるいはその反対に、男女のロマンティックな夢物語として語るだけでは、見えないものがあるということである。ほとんど語られることなく、見えなくされているものがある。主婦の不貞行為は、その行為の性質上、もっとも語られることの少ない行為である。道徳的にも法的にも断罪される犯罪。にもかかわらず、飽くことなく繰り返されてきた日常的な犯罪。ここから考察されるべきは、主婦が置かれた一般的な条件と、生活経済、そして、それらの機制がどのように作動することで状況に関与しているかだ。

 なにかとても卑近な話を大げさにふくらませていると思われるかもしれない。ここにひとつ補助線を引いてみよう。
 かつて産業資本主義の黎明期、怠けることが犯罪視されていた時代がある。初期の産業労働者に休息はなく、おきている時間はずっと働いていた。労働運動は、労働時間の制限(8時間労働の原則)を要求し、サボタージュやストライキ戦術にうったえ、労働者が休息することを法的権利として認めさせていった。しかしこのとき、主婦が休息する権利はとりのこされた。育児や家事労働は休息がないままにおかれ、むしろその担うべき労働の強度を増していった。賃労働者が自由時間を確保していったのとは対照的に、主婦は自分の時間を失っていったのである。
 時代はくだって現在、新自由主義政策下の企業経営は、時代を逆回転させるかのように労働条件を圧迫している。労働時間は際限なくのびつづけ、おきているあいだはずっと働いているという状態が復活している。サービス業や知的生産といった“非物質的労働”の拡大が、この傾向を加速させる。こうした現象を“労働者の主婦化”として捉えるならば、問題は労働者の人権問題という枠組みを超えて、さらにおおきなスケールで「怠ける権利」を構想しなくてはならない。
 誰でも知っている事実だが、労働者のサービス残業は、法的にではなく(法的には違法だ)、道徳的な勤めとして強要されるのである。彼はおきているあいだずっと会社のためにスタンバイしている。なぜならそれが彼の勤めだから。彼が消耗しきってしまうまえに伝えなければならないのは、労働者の法的権利であるまえに、勤めを怠けるという反道徳の精神である。ある主婦は、不貞行為によって家族を裏切る。自分の時間をつくるにはそうするしかないと考えたから。家族への「愛」が、すきまのない全面的な勤めとしてあらわれたとき、彼女は「愛」を部分的に放棄するのだ。たいして、労働者は、会社を裏切る用意ができているか。主婦よりもずっと純朴に、会社への「愛」を信じさせられているのではないか。

 話を本題に戻して、もうひとつ歴史を参照したい。
 魔女の伝説がある。1517世紀のヨーロッパを揺るがした、あの魔女である。
 魔女は、分裂した二つの性格をもっている。
 ひとつは、民衆の医療の担い手としての魔女である。まだ病院がなかった時代、薬学と保健衛生学を手探りしていたころに、魔女は森でハーブを摘み、調合し、人々に与えた。出産、育児、医療を担う知識人として、魔女は村人の(女の)共同性を体現するものだった。
 もうひとつは、共同体の敵としての魔女だ。魔女は人々が寝静まった深夜、ほうきに乗って空を飛ぶ。魔女は村人の知らない秘密の場所に集まり、サバトという背徳的で官能的な時間をたのしむ。この「事実」によって、魔女は教会に断罪され、猛烈な弾圧をくわえられるのである。
 共同体の要であることと、共同体の敵であることと、どちらが魔女の実像に近いのかという話ではない。そうではなく、一見すると相反する二つの性格を同居させているところに、魔女伝説の深さがある。魔女には、母性と反母性の葛藤がある。
 彼女は、家族の生命に責任をもとうとして、実際にその責任を果たすだけの知識をもっている。毒も薬もよく知っていて、人体のあつかいかたを知っている。利他的で、知的で、頼りになる母だ。しかし母は、ただ家族に奉仕するだけの平板な存在ではない。深夜、彼女は母であることをやめて、誰も知らない秘密の場所にでかけてしまうのだ。



 放射線防護活動は、その多くが子供をもつ主婦によって担われている。このことをもって彼女たちの活動を「母性主義」とみなすのは、間違いである。そんな退屈な話ではない。
 ある主婦が全精力をかけて子供をまもっているときに、同時に、母であることにうんざりしているということは充分にありうる。むしろそのほうが自然だ。母としての勤めが強度を増すにしたがって、そこから離れようとする感情も増大していく。公害事件、再生産労働、性道徳が、生活経済の中心で循環し、変動する。主婦の「不倫」の流行は、あるエコノミーの綻びであり、調整でもある。
 だから、放射線防護という難儀な仕事を主婦に押し付けて、「彼女たちは頼りになる」なんてのんびり構えていると、見えないところから、「社会」が解体していくことになるだろう。どんな男と会っていたかなんてことは問題ではない。男に会う直前と直後に、彼女がひとりでたたずんでいたという事実が、不貞のプロセスの核心である。
 母性と反母性の葛藤がドライブを加速する。
 見えない場所で。
 それは郊外のモーテルかもしれないし、ショッピングモールの駐車場かもしれないし、あかるい喫茶店かもしれない。