2015年1月13日火曜日

流れと視覚



 山の手みどりとともに、名古屋市の東端に位置する東山に行った。
東山のスカイタワーから名古屋市を一望する。南には伊勢湾があり、北には岐阜県の山並みがあり、それらに挟まれた平坦な土地に名古屋の街並みが広がる。海沿いには伊勢湾岸自動車道の高架が東西に伸びて、山側には名古屋第二環状道路の高架が弧を描き、この二つの自動車道が名古屋市の外縁をぐるりと囲んでいる。東山スカイタワーは名古屋を一望するには絶好のビューポイントだ。
 30分ほど時間をかけて、じっくりと街を見た。
 しかし、よくわからない。なにかが見えてくる気配もない。とりつくしまがない、とはこういうことだ。私たちは見ることを諦めてタワーを降りた。
 市街地でクルマを走らせながら、これはいったいなんなのかと話し合った。議論の経過は省くが、結論として出てきたのは、速度の問題である。

 以前にも書いたように、名古屋市は道路網の街である。街、というよりも、道路だ。その流れは強力で、支配的である。ここでは人間が立ち止まったりたたずんだりするのではなく、時速50キロで走る自動車に身をまかせているのである。このことは、都市の空間的編成に作用しているというだけでなく、都市の景観に作用し、人間の視覚に作用していると思われる。端的に言えば、名古屋を展望する最良の方法は自動車に乗ること、時速50キロの流れに身を置くことだ。どこかに座ったり、歩いたりというのでは、この街は見えない。自転車でも速度が足りない。自動車の速度に身を置いてはじめて名古屋を見ることができるのである。

 自動車が空間を浪費することで、都市の密度は失われている。道路と駐車場が空間を貪欲に食い荒らす。この街には密と疎があるのではなく、どこもまんべんなく疎になっている。それらを再び圧縮して見えるものにするためには、自動車の速度が必要になるのである。
名古屋では古典的なパースペクティブの概念が通用しない。視点は固定されるのではなく、動的に、時速50キロで滑り抜けるフローのなかにある。名古屋の街に立ったとき、「途方にくれる」とか「孤立した淋しい印象をもつ」とかいうのは、彼がこの街の速度から取り残され、視点を喪失しているということなのである。


 名古屋についてよく聞かれる決まり文句がある。
「新幹線で通過したことはあるが、降りたことはない」。
そう。それはみんなそうなのだ。地元に暮らす名古屋市民にしても、この街を滑り抜けているだけで、腰を落ち着けて視点を定めることはない。強力な流れに身を置き続けていなければ、誰もが途方に暮れてしまうのである。


おまけ(懐メロ)









追記

 誤解がないようにつけ加えるが、私たちは名古屋の話をだけしているのではない。
 都市の「風景」は古典的なパースペクティブでは捉えられないものになっていて、都市はずっと以前から絵画的であることをやめていた。ここで参照してもらいたいのは、いまから45年前に撮られた映画『略称連続射殺魔』と、松田正男氏らが展開した「風景の死滅」論である。
 『略称連続射殺魔』は、永山則夫という少年の遍歴をたどった映画である。彼は北海道の辺境から京都まで、列島を縦断していく。そこで彼が見たであろう風景を、ひとつひとつ映していった作品だ。
 むかし新宿のバーで松田氏と飲みながら、『略称連続射殺魔』の撮影過程について話を聞いた。彼がこの映画でまずこだわったのは、画面をフィックスで撮ることだった。「足立がカメラをパンしようとするから、俺はパンをするなと言って、カメラについてるパン棒を取り上げたんだ」と。たしかに、映画の冒頭北海道の荷馬車のシーンではレールが使用されているが、そのあと、青森の蒸気機関車のシーンからは、ずっと画面はフィックスになっている。この演出が効いている。
 ときは第二次全国総合開発計画の前夜、田中角栄が「日本列島改造論」を号令する直前の時期にあって、この映画はさまざまな乗り物を映しながら、交通とは何かという問いを暗示する作品となっている。俗に「風景論」の映画と呼ばれるこの作品は、正確には「風景後論」の映画であって、交通網の強化によって「風景」が死滅していく世界を示そうとしている。ここでフィックスの画面とは、ひとつの反語表現であり、つよい異化効果をもたらすものだ。観客である我々は、フィックスで映され続ける画面から、絵画的な「風景」が終わろうとしていること、そして、強烈なフローから逃れらないプロレタリアの運命を知るのである。
 どこかに腰を落ち着けて視点を定めることができないこと、フローにさらされ続ける多動症的性格は、けっして例外的なものではない。それはいまではプロレタリアの一般的規則となっている。


               

 第五次全国総合開発計画以降、日本の道路行政は観光開発に着手した。よく知られているのは「道の駅」の整備である。都市は、一度は死滅した絵画的な風景をふたたび捏造し、観光客のフローを創出しようとしたわけだ。しかし、この試みはうまくはいかないだろう。最大の障害は放射能汚染である。たとえば昨年の話だが、『美味しんぼ』という人気漫画が終了した。地域の観光政策の最大の柱である「食」が放射能に汚染され、『美味しんぼ』が示していた観光開発の展望は、暗礁に乗り上げる。それに換わって、汚染を逃れるための大規模な移住が、フローの核心を占めることになる。権力が設計したフローから、民衆の抵抗のフローへと、方法の大胆な転用が生まれている。