2015年5月20日水曜日

橋下徹は何に敗れたか



 橋下市長が大阪市民に問うた「大阪都構想」住民投票は、途中から橋下市長の信任投票という性格にスライドしつつ、反対派が勝利した。「橋下市長はいらない」という大阪市民の意志が、僅差ではあるがまさったのだった。
やったね。
大阪市民のみなさん、おつかれさま。

 さて、選挙結果が確定した直後から、橋下信者の怨嗟の声が聞こえてくる。
橋下信者とは、表面的にはテレビに扇動された「改革教」信者であり「リーダーシップ教」信者であるのだが、その性根を支えているのは企業文化への盲目的追従である。
 橋下の言葉は、会社の会議室で交わされる言葉であり、その小児病的表現である。「小児病的」というのは、人間社会に対する洞察を欠いた幼稚な叫びであるという点で、それをいい年した大人がやっているという点で、病的なのである。

 まず普通に考えてみればわかることだが、「改革」や「リーダーシップ」というものは、あのように言葉にして叫ぶものではない。私は40年近く生きてきて人並みに社会経験があるので知っているのだが、組織を改革してしまう人たちは「よしこれから改革しよう」などとは言わない。組織の中でリーダーシップを発揮している人は、「リーダーシップ」という言葉を使わない。「改革」や「リーダーシップ」とは、それとして意識されないように黙ってやるものだ。改革者はまるで改革者ではないようにふるまいながら改革するし、仲間から信頼されているリーダーはまるでリーダーに見えないような仕方で集団を統率している。そうしなければうまくいかないからだ。現実の実践とはそういうものだ。
 「改革教」や「リーダーシップ教」の政治家たちが、人間的な深みのない浅薄な印象を与えるのは、彼らが言葉をあつかうための実践感覚を欠いているからだ。まるで「改革」という言葉をワードに打って印刷すれば人々がひれ伏すとでも思っているかのようだ。あるいは、指示書に「改革」と書いておけば、誰かが改革を実現してくれるだろうという甘えがある。
こうした横着な態度を育んできたのは、企業であり、会社員の文化である。会社員はただ書類に言葉を書き込むだけで仕事をしたつもりになっている。文脈を考えず無駄に繰り返される平板な言語感覚。その言葉は他人の心をつかむことがない。それは、自らの優越的地位に依拠して他人を断罪したり命令したりしているだけだから、人々を心から納得させることができない。人々がその言葉を受け入れたり、受け入れたふりをするのは、企業社会の脅しが通用する限りにおいてだ。
しかしそうした脅しは通用しなくなりつつある。非正規労働者の拡大=会社員の縮減によって、企業の文化は社会的重みをもたなくなっているからである。端的に言って、彼らの議論はイタいものになりつつある。

 大阪市民が示した橋下市長への不信任とは、企業文化が主導してきた改革リーダーシップ論議を、人々がシニカルな態度で退け、「王様は裸だ」と告げたものだといえる。いまや我々は、会社員たちとはまったく違うやりかたで言葉を交わす。それは2011年3月の放射能汚染によって決定的になった。あの日から、企業社会の文法と、民衆の文法は、決定的に分岐した。
 これからが楽しみだ。