2015年1月27日火曜日

「復興」の呪術的性格について


 オーストラリアから来日した研究者から、放射能汚染問題について私にインタビューをしたいという連絡があった。外国人と話すことは、自分の頭の中を整理するのに役に立つ。こちらから聞きたいこともある。というわけで、名古屋駅の駅ビルでおちあって話をした。

 私がまず彼に確認したかったのは、「復興」という言葉が英語ではどう翻訳されているかである。答えは予想したとおり、“Recovery”(リカバリー)または“Reconstruction(リコンストラクション)だった。
これは以前から気になっていたことなのだが、きちんと説明しないで流してきていたことでもある。細かいことではあるが、日本の政治的文脈を把握するためには、丁寧に説明しておいたほうがいい。この際、「復興」という言葉が正確にはどのような概念であるのかを説明しようと思った。

 「復興」は“Recovery”や“Reconstruction”ではない。「復旧」とか「再建」というのであればその訳語でいいのだが、「復興」はそうではない。破壊されたものを元の状態に戻すのは「復旧」。破壊されたものを、以前よりも大きく成長させるのが「復興」である。「復興」という言葉は、「破壊をバネにして発展させる」「飛躍的に成長させる」という強い意味を持っている。それはReconstruction”という訳語では足りない。もっと重い意味を含んで語られるものだ。

 「復興」という概念の政治的性格を説明するために、関東大震災後の「復興」と、第二次大戦後の「復興」について簡単に話をした。とくに重要なのは第二次大戦後の「復興」である。1944年から45年にかけて、米軍の戦略爆撃によって日本の大都市は焦土となった。多くの日本人にとって戦争の記憶とは、空襲であり、都市が焦土化されたという記憶である。焦土となった都市のイメージは、いまも繰り返し伝えられている。そしてそこから連続して語られる「戦後」とは、焼け跡から近代的な都市を建設したという経験である。それは、「破壊をバネにして発展させる」「復興」の成功物語として、日本史に深く刻まれているのである。
 「復興」とは、日本の保守政治家が誇る最大の成果であり、成功体験であり、彼らのレゾンデートルでもある。「復興」は、「復興せよ」という命令を含むパフォーマティブな政治言語である。「復興」とは、誰も疑いを挟むことのできない号令として、呪術的な性格をもって機能するのである。

 このことは、例えばアメリカの政治家たちが「中東の民主化」というレトリックを公然と批判することができないのと似ている。中東にたいする戦争が民主化にいたるなどと信じている者はいない。しかしアメリカ人とアメリカの政治家たちは、「民主化」という政治言語の呪術的性格から誰も自由ではないのだ。

 日本の政治にとって「復興」は、呪術的な性格を持つ号令である。
 じっさいには、東日本の被災地の「復興」ができるなどと考えている者は少ない。ほとんどいないと言っていい。元の状態に戻すことすら出来るかどうかわからないのに、「復興」などできるはずがない。しかし、政府と政治家はずっと「復興」という念仏を唱えている。そしてこんな非現実的で無責任な政策方針を、誰も少しも批判できないでいるのである。

 この「復興」の呪術から唯一自由であるのは、放射線防護派の人々だ。東日本産食品の不買を続けている主婦たち、また、汚染地帯から脱出してきた避難者たちは、「復興」政策を拒絶し、日本の戦後政治のレゾンデートルに亀裂を入れたのである。


追記

 フランスの講演で通訳をしてくれたS氏から、この件についてメールがあった。彼女も通訳者として同じことを感じていたという。通訳の現場では、便宜的に“reconstruction”という訳語をあててきたのだが、もうひとつニュアンスが違う。「復興」を翻訳するとき、彼女の頭に浮かぶ訳語の候補は、“reconstruction”か、または、“renaissance”(ルネサンス)だという。
 なるほどね。さすが、言葉の職人だ。
 たしかに日本の政治空間の中で、「復興」はルネサンスであるかもしれない。それは人々に主観的な解放感を与えてくれる、擬似的なルネサンス、反転したルネサンスと言える。

 たとえば国策として進められた広島市の「復興」は、その影の部分で、大量の離散者と、白血病による死者、補償から排除された被爆者を生み出した。そうした無数の被害を隠蔽し被害者を切り捨てることが、広島「復興」政策の条件であったわけだ。(このことは福島「復興」政策でも繰り返されるだろう。)
この反転したルネサンスにおいては、神話が打ち破られるのではなく、反対に、神話が現実を圧倒する。見せかけのスペクタクルが、人々に犠牲を要求し、同時に、人々に犠牲を強いたという事実を忘却させる。この忘却は、ただ権力だけが望んでいるのではない。多くの民衆が、被害を忘却したがっている。出口の見えない困難な現実を、想像的に克服したい、イメージの力で解消したい、と望むのだ。
 問題の責任をうやむやにしたい政府権力と、被害を直視することを恐れる民衆とが、奇妙な野合をはたす。両者を結合した「復興」とは、たんに物質的な“reconstruction”にとどまらない、精神的な運動を構成している。福島「復興」政策に翼賛するアーティストやボランティア団体が、福島の現実課題を無視していたとしても、それは驚くに値しない。彼らは福島の人々がうけた被害ではなく、「復興」の精神運動のなかで自らの存在意義を示そうとしたのだから。

 反転したルネサンス “the reversed Renaissance”。
 これもまた「復興」の訳語に妥当すると思う。

2015年1月13日火曜日

流れと視覚



 山の手みどりとともに、名古屋市の東端に位置する東山に行った。
東山のスカイタワーから名古屋市を一望する。南には伊勢湾があり、北には岐阜県の山並みがあり、それらに挟まれた平坦な土地に名古屋の街並みが広がる。海沿いには伊勢湾岸自動車道の高架が東西に伸びて、山側には名古屋第二環状道路の高架が弧を描き、この二つの自動車道が名古屋市の外縁をぐるりと囲んでいる。東山スカイタワーは名古屋を一望するには絶好のビューポイントだ。
 30分ほど時間をかけて、じっくりと街を見た。
 しかし、よくわからない。なにかが見えてくる気配もない。とりつくしまがない、とはこういうことだ。私たちは見ることを諦めてタワーを降りた。
 市街地でクルマを走らせながら、これはいったいなんなのかと話し合った。議論の経過は省くが、結論として出てきたのは、速度の問題である。

 以前にも書いたように、名古屋市は道路網の街である。街、というよりも、道路だ。その流れは強力で、支配的である。ここでは人間が立ち止まったりたたずんだりするのではなく、時速50キロで走る自動車に身をまかせているのである。このことは、都市の空間的編成に作用しているというだけでなく、都市の景観に作用し、人間の視覚に作用していると思われる。端的に言えば、名古屋を展望する最良の方法は自動車に乗ること、時速50キロの流れに身を置くことだ。どこかに座ったり、歩いたりというのでは、この街は見えない。自転車でも速度が足りない。自動車の速度に身を置いてはじめて名古屋を見ることができるのである。

 自動車が空間を浪費することで、都市の密度は失われている。道路と駐車場が空間を貪欲に食い荒らす。この街には密と疎があるのではなく、どこもまんべんなく疎になっている。それらを再び圧縮して見えるものにするためには、自動車の速度が必要になるのである。
名古屋では古典的なパースペクティブの概念が通用しない。視点は固定されるのではなく、動的に、時速50キロで滑り抜けるフローのなかにある。名古屋の街に立ったとき、「途方にくれる」とか「孤立した淋しい印象をもつ」とかいうのは、彼がこの街の速度から取り残され、視点を喪失しているということなのである。


 名古屋についてよく聞かれる決まり文句がある。
「新幹線で通過したことはあるが、降りたことはない」。
そう。それはみんなそうなのだ。地元に暮らす名古屋市民にしても、この街を滑り抜けているだけで、腰を落ち着けて視点を定めることはない。強力な流れに身を置き続けていなければ、誰もが途方に暮れてしまうのである。


おまけ(懐メロ)









追記

 誤解がないようにつけ加えるが、私たちは名古屋の話をだけしているのではない。
 都市の「風景」は古典的なパースペクティブでは捉えられないものになっていて、都市はずっと以前から絵画的であることをやめていた。ここで参照してもらいたいのは、いまから45年前に撮られた映画『略称連続射殺魔』と、松田正男氏らが展開した「風景の死滅」論である。
 『略称連続射殺魔』は、永山則夫という少年の遍歴をたどった映画である。彼は北海道の辺境から京都まで、列島を縦断していく。そこで彼が見たであろう風景を、ひとつひとつ映していった作品だ。
 むかし新宿のバーで松田氏と飲みながら、『略称連続射殺魔』の撮影過程について話を聞いた。彼がこの映画でまずこだわったのは、画面をフィックスで撮ることだった。「足立がカメラをパンしようとするから、俺はパンをするなと言って、カメラについてるパン棒を取り上げたんだ」と。たしかに、映画の冒頭北海道の荷馬車のシーンではレールが使用されているが、そのあと、青森の蒸気機関車のシーンからは、ずっと画面はフィックスになっている。この演出が効いている。
 ときは第二次全国総合開発計画の前夜、田中角栄が「日本列島改造論」を号令する直前の時期にあって、この映画はさまざまな乗り物を映しながら、交通とは何かという問いを暗示する作品となっている。俗に「風景論」の映画と呼ばれるこの作品は、正確には「風景後論」の映画であって、交通網の強化によって「風景」が死滅していく世界を示そうとしている。ここでフィックスの画面とは、ひとつの反語表現であり、つよい異化効果をもたらすものだ。観客である我々は、フィックスで映され続ける画面から、絵画的な「風景」が終わろうとしていること、そして、強烈なフローから逃れらないプロレタリアの運命を知るのである。
 どこかに腰を落ち着けて視点を定めることができないこと、フローにさらされ続ける多動症的性格は、けっして例外的なものではない。それはいまではプロレタリアの一般的規則となっている。


               

 第五次全国総合開発計画以降、日本の道路行政は観光開発に着手した。よく知られているのは「道の駅」の整備である。都市は、一度は死滅した絵画的な風景をふたたび捏造し、観光客のフローを創出しようとしたわけだ。しかし、この試みはうまくはいかないだろう。最大の障害は放射能汚染である。たとえば昨年の話だが、『美味しんぼ』という人気漫画が終了した。地域の観光政策の最大の柱である「食」が放射能に汚染され、『美味しんぼ』が示していた観光開発の展望は、暗礁に乗り上げる。それに換わって、汚染を逃れるための大規模な移住が、フローの核心を占めることになる。権力が設計したフローから、民衆の抵抗のフローへと、方法の大胆な転用が生まれている。


2015年1月12日月曜日

失敗モデルとしての名古屋



 筆休めに、名古屋について。


 深夜12時、母から借りた車に乗り込みエンジンをかける。
名古屋の北側に隣接する春日井市から国道19号線を南下し、名古屋市の南端に位置する金城埠頭に向かう。埠頭に向かって走るのは、今週三度目だ。
 名古屋という街について、遠まわしなほのめかしばかりしていても議論が進まないので、まず単純な事実からおさえておこうと思う。

 よく知られているように、名古屋は道路が広い。片側4車線という道路はめずらしくない。これが、重要な幹線道路がそうだというのならたいした驚きはないだろうが、幹線でもなんでもない普通の道路が片側4車線だったとしたらどうだろう。驚きを通り越して呆れてしまうのではないだろうか。じっさい意味不明なのだ。車を走らせながら首をかしげることがしばしばある。なぜこんな重要度の低い道路が、こんなアホのように広くなくてはならないのか、と。


 自動車は空間を浪費する。道路と駐車場が街区を虫食いにし、街並みの密度を失わせる。店から店へと歩くあいだに、ちょくちょく駐車場が挟まってしまうので、歩行者はその分だけ余分に歩かされることになる。無駄に広い道路は街区を切断し、街並みの連続性を破壊する。名古屋の女性がハイヒールを履いていないのは、また、名古屋の繁華街で若いカップルがデートしている姿を見かけないのは、この街が歩いて楽しい街ではないからである。楽しくないだけでなく、歩きにくいのだ。密度がなくただひたすら歩かされる街で、どうしてデートしようという気分になるだろうか。市内に張り巡らされた片側4車線の道路網は、都市が都市として生成しようとする力学に制動をかけてしまっているのである。


 名古屋の風景からまず端的に見えてくるのは、モータリゼイションのための徹底した都市計画と、その失敗した姿である。この失敗は名古屋だけの話ではない。どの都市でも経験されたモータリゼイションの失敗を、この街はとても見えやすい形で集約的に表現しているにすぎない。
 今後、この社会がモータリゼイションの熱病から覚めて、自家用車がいまほど使われなくなったときに、名古屋の都市計画の失敗はますます異様さを放つことになるだろう。
 そして、名古屋の都心部が現代的な観光商業都市へと生まれ変わるためには、道路のダウンサイジングという前例のない事業を必要とするだろう。




2015年1月4日日曜日

名古屋という問い

 山の手緑氏が名古屋に移住して1年。彼女もようやく名古屋の酷薄さについて口にしはじめた。
 今日は二人で名古屋市内をドライブした。中区から中川区へ、さらに港区金城ふ頭へ。そこから折り返して名古屋港。熱田区。新堀川を北上して中区へと戻る。
 新堀川ぞいにあるコメダ珈琲で、二人で深いため息をついた。

 問題は名古屋ではないし、ましてや、東京や大阪といった特殊な都市圏でもない。世界に拡張してゆくこのありふれたメトロポリゼイション、とりとめなく拡がる冷たい産業都市の風景と、正面から向き合うことである。
 山の手氏と同じころ移住した前瀬くんはかつて、名古屋の酷薄さに触れて、「いくつもの概念装置を用意しなければ、この街を見ることはできない」と言った。
そしていま山の手緑は、「言葉がまったく足りない」と言う。「この街に答えはなく、ただ問いだけがある」と。

 我々は都市について、なんら有効な概念も言葉も持っていない。この認識にたっして、むくむくとやる気が沸き起こってきた。誰も見たことのないハードコアな都市論が、名古屋から生まれる。新しい分析枠組みは、東京でも大阪でもなく、名古屋の酷薄さのなかから登場するだろう。
 我々はいま野心的である。
 名古屋は人を野心的にさせる。