2015年5月30日土曜日

ひさびさにストライキ


 山の手緑の雇止めをめぐる労働争議で、会社と組合の団体交渉は暗礁にのりあげた状態。
 会社側代理人の弁護士が異常なボンクラなので、話が前に進まない。

 腹立たしいので一日だけストライキをうった。

 山の手緑と組合員3名で職場にはいり、ストライキを通告。そのまま事務所内に居座り、横断幕を掲げながら管理職と正社員を睨み続けてやった。
 所長はあたふたしていたが、それもこれも代理人弁護士が反共バブル世代のボンクラだからいけないのだ。

 やっぱ現場ストライキはいい。、少し気分がすっきりした。
 

2015年5月28日木曜日

魔女狩りについての考察



 魔女狩りについて考えるとき、まず我々の目を引くのは冤罪の多さである。
魔女裁判にかけられて虐殺された多くの人々が、実際には魔女ではなかったし、異端者でもなかった。善良で模範的な村人や敬虔なキリスト教信徒が、魔女狩りの犠牲になっている。その数は多い。我々はこの事実に驚き、つぎにその闇の深さを想像し、魔女狩りについて考えることをためらってしまう。そしてつい魔女狩りについて考えることをやめて、魔女について想いをめぐらしてしまう。その方が楽しいし、心を豊かにするものだからだ。
 魔女の豊かさに比べて、魔女狩りはみじめだ。魔女狩りについて考察することは、人間の卑しい歴史に向き合うことだ。


 魔女狩りを考えることは、告発の力学を考えることだ。その告発は真実ではない。嘘によって他人を陥れる誣告である。なぜ人々は、隣人を死に追いやるような誣告を行っていったのか。教会が魔女狩りを開始したとき、どのような人々が誣告を企てたのか。

 まず、魔女について考えてみよう。
現代の魔女研究の成果によって定説となりつつあるのは、「魔女」は農村の医療家であったという説である。私もこの説を支持する。
近代医学が登場する以前、農村の医療を担っていたのは、薬草の知識に通じた「魔女」であった。病院のない村で、村人たちの健康相談に応じる女性がいた。彼女は婦人病の相談に応える薬剤師であり、分娩を手伝う産婆であり、生まれた子の健康状態をみる小児科医であった。
 こうした医療行為自体、教会にとっては異端であった。なぜなら当時のキリスト教会は、人々の病の原因を「信仰の不足」と考えていたからである。教会が病人たちに要求したのは、より強く信仰することだった。農村の医療家たちの実践は、キリスト教の教義から逸脱していたのである。
 とはいえ、教会の神父が直接に「魔女」を摘発したとは考えにくい。「魔女」は農村の生活を支える重要な人物だったからである。あるいは、教会の神父がただひとりで「魔女」を断罪することは困難だっただろう。そこには村人たちの協力が必要であったはずだ。
 では、村のなかの誰が、どのような動機をもって、魔女狩りに協力したのか。
敬虔なキリスト教徒が、信仰の熱狂に突き動かされて、魔女狩りを推進したのだろうか。そうした例もあったかもしれない。しかしそうした図式だけでは、魔女狩りの規模を説明するのはむずかしい。おそらく問題の中心はそこにはない。魔女狩りを推し進めたもっとも大きな原動力は、村のなかでもあまり熱心ではない不信心な信徒たちである。
 教会は村人に告解をすすめる。しかし村人には、教会の神父には言えないような秘密がある。「魔女」はそうした秘密を知る人物だった。彼女は医療家として村人の健康相談にのっているから、各人のデリケートな秘密を知ることになる。どの男が性的不能であるとか、肛門愛好者であるとか、動物との性交にふけっているという秘密を知ることになる。村人の生活の実態が教会の教えとどれほど乖離しているかを、「魔女」は知っている。
もっとも広範に一般的に秘匿されていたのは、堕胎の秘密である。当時の教会は堕胎を重大な罪とみなしていた。しかし貧しい農村の現実は、堕胎を必要としていたのだ。
 教会の異端審問が拡大していったとき、ほんとうに恐怖で震えたのは、そうした秘密を抱える人々であっただろう。彼らは自分や自分の家族が摘発されるかもしれないという恐怖に駆られ、嘘の証言をしたのだ。魔女狩りを拡大させたのは、キリスト教への熱狂的な信仰ではない。教会の教えどおりには生きられない者たちが、信仰の見せかけをとりつくろうために、秘密を知る女を殺し、口を封じたのだ。

 こうして告発者の視点から問題を眺めてみると、魔女狩りのなかでなぜ敬虔なキリスト教徒が告発されていったのかが、すんなり理解できる。告発者を恐怖に陥れたのは魔女でも悪魔でもない。彼らにとって真に脅威であったのは、キリスト教であり、身近にいる熱心な信徒だったのだ。


 スラヴォイ・ジジェクが、スターリン主義について指摘するのは、もっとも熱心なスターリン主義者たちがスターリン体制の下で粛清されていったという事実である。スターリン体制は、トロツキー主義者を粛清するだけでなく、スターリン主義者も粛清していった。おそらくここで告発を推進したのは、人々の共産主義への熱狂ではない。共産主義を信じているふりをする必要に駆られた人々がいたのだ。

 資本主義社会の企業のなかで問題になるのは、「生産性」や「効率」や「能力」という指標の濫用である。職場のなかでもっとも無能な者が、無能ではないふりをするために、率先して「生産性」を号令するということはありうる。日本の企業社会はこれまで40年にわたって「生産性向上」を号令してきたが、言うほどに成果が上がっているかどうかは疑わしい。権力と嘘の力学を考慮するならば、もっとも有能な者が「無能」の烙印をおされて職場から排除されることは、充分にありうるのだ。

 異端審問についても、スターリン主義についても、生産性向上についても、それらの号令が額面どおりに貫徹されることはおそらくない。社会はもっと複雑で、立体的だ。権力は人間を服従させるが、それだけではない。権力は人間を腐敗させ、不義に満ちたやり方で抵抗を生む。



 現在の放射能汚染という事態にからめて言えば、私たちのような放射線防護派にたいして「放射脳」と罵倒する者がいたとして、私はそういう者たちを呪いつつ、ささやかな期待をしている。彼らは正々堂々としたやりかたではないが、陰湿で不義に満ちたやりかたではあるが、かならず「復興」政策に打撃を与えることになる。権力の嘘を民衆みずからが担うとき、服従はただ服従だけでは終わらない。嘘の矛先は乱反射して、権力に突き刺さり、社会を膠着状態に陥れるだろう。楽しみだ。


2015年5月23日土曜日

本の紹介『日本が”核のゴミ捨て場”になる日』



 『日本が”核のゴミ捨て場”になる日』 沢田嵐著  旬報社





 著者の沢田嵐さんは、東京赴任中に放射能汚染に巻き込まれ、いのちからがら名古屋に退避してきた人です。名古屋では市民測定所のボランティアスタッフに加わり、愛知県のがれき焼却受け入れ問題では、反対派として積極的に動いた人です。愛知県のがれき焼却反対運動は、たくさんの小さなグループが同時多発的に動いていましたが、そのなかでも計画中止に大きく貢献したのが沢田嵐さんたちのグループです。

 放射能がれき問題は、電力会社の廃炉(バックエンド)費用を左右する重大な焦点です。核のゴミをどれだけ安く処分できるかで、電力会社の存亡が決まります。震災がれき問題は、終わった話ではなく、はじまりにすぎません。
 というわけで、本書は必読です。
 図書館にリクエストしましょう。




2015年5月20日水曜日

橋下徹は何に敗れたか



 橋下市長が大阪市民に問うた「大阪都構想」住民投票は、途中から橋下市長の信任投票という性格にスライドしつつ、反対派が勝利した。「橋下市長はいらない」という大阪市民の意志が、僅差ではあるがまさったのだった。
やったね。
大阪市民のみなさん、おつかれさま。

 さて、選挙結果が確定した直後から、橋下信者の怨嗟の声が聞こえてくる。
橋下信者とは、表面的にはテレビに扇動された「改革教」信者であり「リーダーシップ教」信者であるのだが、その性根を支えているのは企業文化への盲目的追従である。
 橋下の言葉は、会社の会議室で交わされる言葉であり、その小児病的表現である。「小児病的」というのは、人間社会に対する洞察を欠いた幼稚な叫びであるという点で、それをいい年した大人がやっているという点で、病的なのである。

 まず普通に考えてみればわかることだが、「改革」や「リーダーシップ」というものは、あのように言葉にして叫ぶものではない。私は40年近く生きてきて人並みに社会経験があるので知っているのだが、組織を改革してしまう人たちは「よしこれから改革しよう」などとは言わない。組織の中でリーダーシップを発揮している人は、「リーダーシップ」という言葉を使わない。「改革」や「リーダーシップ」とは、それとして意識されないように黙ってやるものだ。改革者はまるで改革者ではないようにふるまいながら改革するし、仲間から信頼されているリーダーはまるでリーダーに見えないような仕方で集団を統率している。そうしなければうまくいかないからだ。現実の実践とはそういうものだ。
 「改革教」や「リーダーシップ教」の政治家たちが、人間的な深みのない浅薄な印象を与えるのは、彼らが言葉をあつかうための実践感覚を欠いているからだ。まるで「改革」という言葉をワードに打って印刷すれば人々がひれ伏すとでも思っているかのようだ。あるいは、指示書に「改革」と書いておけば、誰かが改革を実現してくれるだろうという甘えがある。
こうした横着な態度を育んできたのは、企業であり、会社員の文化である。会社員はただ書類に言葉を書き込むだけで仕事をしたつもりになっている。文脈を考えず無駄に繰り返される平板な言語感覚。その言葉は他人の心をつかむことがない。それは、自らの優越的地位に依拠して他人を断罪したり命令したりしているだけだから、人々を心から納得させることができない。人々がその言葉を受け入れたり、受け入れたふりをするのは、企業社会の脅しが通用する限りにおいてだ。
しかしそうした脅しは通用しなくなりつつある。非正規労働者の拡大=会社員の縮減によって、企業の文化は社会的重みをもたなくなっているからである。端的に言って、彼らの議論はイタいものになりつつある。

 大阪市民が示した橋下市長への不信任とは、企業文化が主導してきた改革リーダーシップ論議を、人々がシニカルな態度で退け、「王様は裸だ」と告げたものだといえる。いまや我々は、会社員たちとはまったく違うやりかたで言葉を交わす。それは2011年3月の放射能汚染によって決定的になった。あの日から、企業社会の文法と、民衆の文法は、決定的に分岐した。
 これからが楽しみだ。