2016年12月23日金曜日

最後のクリスマス



 2002年に生まれた娘が、来月には15歳になる。いまは中学3年生ということで、高校受験に向けて勉強をしている。娘はいまのところ、「高校なんか行かねえよ」とは言っていないので、たぶん高校に進学するだろう。春になったら、高校生だ(予定)。

 娘にクリスマスプレゼントを贈るのは、今年が最後になる。
 我が家は敬虔なクリスチャン家庭ではない。だから、クリスマスは家族で過ごすべきだというような習慣や信条はない。娘が高校生になったら、女友達とか男友達とか同年代の人間と一緒にクリスマスを過ごしたいだろうし、また、そうするべきである。高校生になる娘が友達のパーティーの誘いを断って家族でひっそり鶏肉を食べますなんてことは、かえって不健全だ。そういう展開は、避けたい。
 というわけで、親子でケーキをつまむ“なんちゃってクリスマス”は、今年が最後になる。

 かれこれ十数年、毎年欠かさず“なんちゃってクリスマス”をやってきて、それはただ便宜的に、なんとなく流れでやってきたにすぎないものだったわけだが、しかし、これで最後となると、すこしさびしい。


 子供が大人になっていく。
 喜びとさびしさとが混合し、一体となって、感じられる。
 感情、感情の経験、感情的であることが、人間を当惑させるのは、この複雑さと奥行きのためなのだろう。このことについて、誰かが書いていたような気がする。ニーチェだったか。バタイユだったか。まあ、いい。




2016年12月22日木曜日

12・17基調講演のれじゅめ

12月17日の集会の内容は、報告集としてまとめて来年に発行します。
私が提出したれじゅめを、ちょっとだけ公開します。れじゅめに添付した統計資料などは、膨大なので、ここでは割愛します。

以下、れじゅめです。
全国各地の「放射脳」左翼のみなさんで、酒の肴にしてみてください。


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れじゅめ 「復興」政策の失敗と権力の弱体化
2016/12/17 矢部史郎

1、福島「復興」政策の諸事業

 11 「食べて応援しよう」キャンペーン 2011年~
 福島県は、小規模農家の戸数が多い農業県である。復興庁・福島県は、農産物の「風評被害払拭」のために、年間16億円の宣伝費用を投じている。このキャンペーンによって、きゅうり、トマト、ももについては、出荷額を事故前の水準に戻している。だが、農家の戸数は減少の一途をたどっている。また、首都圏の消費者意識調査では、「福島産を買わない」が30%と横ばいである。首都圏の消費者の3割は「放射脳」として定着している。

 12 除染事業 2012年~2015年 
 復興庁は、爆心地の周辺11市町村(国直轄除染)のうち、7市町村で除染事業を完了している。除染の効果は最大で45%(空間線量率)である。これはセシウム134(半減期2年)等の自然減衰分を考えれば、あまり効果があったとはいえない。除染完了後の空間線量率は、国が「公衆に許容される」としている0.23μSV/毎時の水準を達成していない。

 13 帰還事業 2014年~
 国と福島県は、県外に避難している県民を帰還させるべく、避難者の住宅補助を打ち切ろうとしている。しかし、県外への人口流出は止まらない。201611月の発表では、県人口が190万人をわった。事故後の5年間で5万人が死亡(超過)し、7万人が県外に転出(超過)している。
人口の「社会減」(転出超過)は、とくに若年者と女性に顕著である。


2、公害訴訟の動向
 福島県の被害者らは、全国20の地方裁判所・支部で、政府と東京電力にたいする損害賠償請求訴訟を提訴している。前橋地方裁判所では、裁判長の迅速な訴訟指揮によって、201610月に結審。20173月に全国で初の判決が出る予定だ。
 201611月、自民党は、東京電力事件の処理費用の試算を、あらたに21.5兆円とし、従来の試算から倍増させた。ここには損害賠償費用の増額が含まれている。
 東京電力事件は、公害事件としての性格を明確にしはじめている。
 




3、議会政治の流動化

 31自民党の分裂・弱体化
  衆院選において自民党は得票総数を減らしている。都市部の支持層が割れて「維新の会」などに流出していることと、東北地域での支持を減らし、民進党・生活の党に負けている。自民党を支えてきた小ブルジョアジー・小地主層が、ブレている。反面、政権復帰後の参院選で自民党は得票数を大きく増やしている。これは大規模な財政出動の成果であると思われる。
自公連立は継続されている。宗教勢力への依存の度合いは強まっている。

 32民主党の解党、「連合」の分裂
  2011年から2012年にかけて、民主党は分裂した。2012年の衆院選は多党乱立の選挙となり、民主党系議員の多くが落選した。さらに、原子力政策と野党共闘をめぐって「連合」が事実上の分裂をしている。これは、原子力問題によって「連合」右派の主導性が失われているためである。

 33共産党の勢力伸長
  民主党が解党したことで、共産党は「反原発派」の事実上の受け皿になった。2014年衆院選での得票数は、事故前よりも110万票増やし、21議席を獲得した。2016年の参院選では、事故前より250万票増やし、議席数を倍増させている。
 だがこの浮動票の獲得は、共産党の意図を超えたものだ。この浮動票の性格の評価をめぐって、共産党は悶絶することになる。この間の勢力伸長は、党の運動方針の成果だろうか。あるいは、野党共闘の成果だろうか。もしもそのどちらでもないとしたら、この浮動票は何か。胡乱な浮動票が増大するにしたがって、党は選挙戦における主導性を保持できなくなってしまう。


4、権威の失墜、批評の興隆
 「放射脳」の登場によって、科学行政、大学、報道機関、社会運動の権威は失墜した。
 なかでももっとも信用を失ったのは、「復興」政策に加担したNPO・市民活動である。
 NPOは、議会政治からの自立性と実践の直接性を備える疑似革命的・疑似ユートピア的性格をもって人々を動員していた。しかし、NPOが「復興」という国策に加担したことで、その化けの皮が剝がれていった。NPOは権力を批判しつつ、それ以上に権力を補完しているという事実が、明らかになった。
 権力の補完と再生産を担うNPOの枠組みが崩れることで、多くの大衆が政治的な批評性に回帰していく。この大衆の政治化という趨勢に対応して、知識人・大学人がにわかに「リベラリズム」を表明していく。2014年以後の「リベラリズム」の流行は、政治化する大衆を封じ込めようとする反動であり、NPO体制の綻びから生じた知識階層の防衛機制である。


5、「風評」の革命的性格

 51 交渉を待たない直接行動主義
 全国で展開される放射線防護活動は、予防原則に基づいて実践されてきた。それらは、議論や交渉の結果を待たず実践され、実践のあとにじっくりと結果を検証する、という形式をとる。議論し結論を出し実践する、のではなく、まず実践をしてそのあとに議論をする、という順番をとる。おそらく人々が「放射脳」に拒絶感を示すのは、この、「まず実践を先行させる」というスタイルのためだろう。また、「放射脳」とそれ以外の人々の議論がかみあわないのは、それぞれの言葉が置かれている位置の違い、実践の前に置かれているのか、実践のあとに置かれているのかという、時間的な機序が違っているからである。
 
 52 合意形成に頼らない単独行動主義
 「放射脳」は合意形成に頼らず単独で行動する。その最たるものは母子避難者である。合意に至らないのであれば、たとえ夫婦であっても別行動をとる。場合によっては離縁する。こうした実践が社会集団に与えた衝撃は大きい。社会集団や合意形成というものが個人によって簡単に崩されてしまうことが、多くの事例によって示された。この状況は、革命的であると言ってよい。

 53 言説の革命的転換
 広範にあらわれた直接行動主義と単独行動主義は、言説が立脚する新たな条件を生み出した。
 それは交渉のための言説ではなく、交渉を待たない言説である。合意や和解を目指して権力に陳情をするような「開かれた」言説ではなく、非和解的で自律した言説である。
 「放射脳」左翼の一つの任務は、こうした革命的性格をもった言説を生み出していくことである。
 目指すべき状態は、非和解的で「まったく議論にならない」者たちが誰よりも饒舌になり、建設的で「開かれた」言葉の提案者たちが沈黙すること。これまで釈明をさせられてきた者たちが沈黙し、人々に釈明を要求してきた者たちが自己弁明に追われる、という状態である。


2016年12月20日火曜日

2016年をふりかえって


 今週末に発売される『情況』誌(2016年no.3)で、「16年テーゼをめぐって」という小特集が掲載されます。この小特集は、今年の春に発表された『16年テーゼ』を題材に、有名無名の10名にコメントを寄せてもらったものです。
 編集をした私が言うと自画自賛になってしまうのですが、そういう部分を差し引いても、良い特集です。
 10名の著者はそれぞれに文体も作風も違っていて、論点にするところもまったく統一されていません。しかし、ただダラダラと感想文を集めたというのではない、緊張感があります。放射能汚染問題を正面から考えること。その被害を、他人事のように書くのではなく、被害当事者として書くこと。2011年以後に失ったものと生み出されたものを、それぞれの経験から書いていくこと。そういう困難な作業を、集団的な作業として実現できたと思います。
 『16年テーゼ』はそれ自体がユニークな提起ですが、「16年テーゼをめぐって」特集はさらにユニークで、論争的なものになっています。ぜひ買ってみてください。


 『情況』誌の特集作業と並行して、名古屋で小さな政治集会をやりました。
1217「放射脳」左翼全国集会(主催・名古屋共産主義研究会)」という集会です。愛知・京都・大阪・愛媛から参加者を集め、小規模だけれども熱い集会になりました。
 基調提起は2名。渋谷要「『16年テーゼ』の思想」、矢部史郎「「復興」政策の失敗と権力の弱体化」。その後2時間の討論と、さらに2時間の忘年会。
 年明けにはこの集会の報告集をつくります。お楽しみに。


 今年は、名古屋のグループで「16年テーゼ」を提起したり、福岡でアナキストの合宿に参加したりと、集団的な作業に時間を費やしました。
 「集団的」と言っても、大きな集団ではありません。核になるのは3人ぐらいです。私の経験から言って、3人ぐらいがちょうどいい。25年前に高円寺で活動を始めたとき、フリーターの労働組合を準備したとき、法政大学の中核派と論争したとき、在特会と対決したとき、いつもスタートは3人ぐらいでした。状況が変化するとき、新しい課題にむかって「産みの苦しみ」を担うのは、3人ぐらいの集団です。3人がしっかりとした確信をもってあたれば、新しい状況を生みだすことは可能です。
 2017年は、きっとおもしろい年になるでしょう。


2016年12月9日金曜日

被曝による都市機能災害



 東京のような巨大都市がまるごと放射能に汚染されてしまうという事態は、かつてなかった。これは人類が初めて経験するものだ。
 被曝症状によって人間の機能が低下することで、都市機能は失調をきたす。鉄道の事件・事故は、首都圏の都市機能災害を示す兆候だ。非常に興味深い。
以下、大規模掲示板「2ちゃんねる」から転載する。

1129日【情報】京成押上線・八広駅で人身事故「見ちゃいけねもの見たよ…」
1129日【情報】中央線三鷹駅で人身事故「人が轢かれた、叫び声が聞こえる飛び込み自殺
1129日【情報】京成線 菅野駅で人身事故「救急車が来てからの処理早すぎ
1128日【情報】京急線 弘明寺駅で人身事故「すごい衝突音、肉片が飛び散ってる
1128日【情報】都営新宿線 曙橋駅で人身事故「駅員にキレてるおっさんがいる
1128日【情報】小田急小田原線 足柄駅 人身事故 「目の前で人がはねられる」
1127日【情報】京成線 堀切菖蒲園駅で人身事故「車掌が、うあぁぁぁぁぁぁと叫ぶ
1126日【情報】京浜東北線 東神奈川駅で人身事故「電車に人が飛び込んだ、車掌の声が震えてる
1126日【情報】JR高崎線で人身事故 踏切内に立っていた女性、はねられ死亡/桶川
1126日【情報】高崎線 北上尾駅~桶川駅間で人身事故「轢かれた少年が線路に倒れてた
1123日【情報】東急田園都市線 用賀駅 人身事故 飛び込んだ人がはねられる
1121日【情報】西武池袋線 東久留米駅で人身事故「遺体がバラバラ」
1121日【情報】常磐線 土浦駅~神立駅間で人身事故「凄い音、何かの上を通過した」
1121日【情報】小田急小田原線 代々木八幡駅で人身事故「乗客が側面に接触し隙間に転落」
1121日【情報】京急線 京急川崎駅~八丁畷駅間で人身事故「ブルーシート広げて肉拾ってる」
1120日【情報】常磐線 柏駅で人身事故のため遅延「お客様が線路でピクピクしてる」
1119日【情報】京王井の頭線 高井戸駅で人身事故 「凄い音がした」
1118日【情報】東武東上線 朝霞台駅で人身事故「電車の下に人 うめき声が聞こえる」
1117日【情報】常磐線 綾瀬駅で人身事故「ブルーシートが生々しい」
1115日【情報】京浜東北線 急病人や荷物挟まりのフルコンボで川口駅や西川口駅がディズニー状態
1115日【情報】埼京線 板橋駅前に全裸の女性が現れて駅員が対応
1113日【情報】総武線(快速) 稲毛駅で人身事故「血の臭いが充満、足がとれた死体がある」
1112日【情報】京王高尾線 京王片倉駅で人身事故「轢かれた男性は血だらけも、自力でホームに這い上がる」
1112日【情報】横須賀線 保土ヶ谷駅で人身事故「レスキューが車両の下で救助活動してる」
1111日【情報】湘南新宿ライン 池袋駅で人身事故「女性が飛び込んで前面ガラス破損」
1110日【情報】小田急線 鶴川駅で人身事故「電車に肉片ついてる。めっちゃ叫び声が聞こえる」
1109日【情報】南武線 線路内で寝ていた人が起きてくれなかった為、電車遅延で各駅混雑
1109日【情報】常磐線 土浦駅~荒川沖駅間で特急ときわ84号が人身事故「何かにぶつかる音がした」
1109日【情報】南武線 線路内で寝ていた人が起きてくれなかった為、電車遅延で各駅混雑
1109日【情報】水戸線常磐線 土浦~荒川沖駅間での人身事故のため遅延「ときわ84号ぶつかった」
1108日【情報】新宿線・拝島は花小金井~小平駅間での人身事故の影響により、電車の運行が乱れまして
1108日【情報】また京急大師線で人身事故。 この前と同じで鈴木町と港町の間。影響で路線バスも混んでタクシー待も凄い列
1108日【情報】西武新宿線 小平駅~花小金井駅間 人身事故 踏切に入っていた人はねられる
1107日【情報】中央総武線 小岩駅 人身事故 すごい衝撃して人が何かに当たった 隣を担架が通っていった
1107日【情報】相鉄線 二俣川駅~鶴ヶ峰駅間で人身事故「物凄い音がして人を轢いた、遺体がある」
1107日【情報】小田急多摩線 黒川駅で人身事故「窓から外を覗かないでくださいとアナウンス」
1105日【情報】信越線 安中駅~磯部駅間で人身事故「めちゃくちゃすごい音した」
1105日【情報】京急線 県立大学駅で人身事故のため遅延「線路上でお客様が手を広げて立ってた」
1105日【情報】小田急線 相模大野駅で人身事故「ホームが血だらけ」電車遅延
1105日【情報】宇都宮線東大宮駅~蓮田駅間で人身事故「何かを踏んだと思ったら人だった」
1104日【情報】京急線 日ノ出町駅で人身事故「目の前に轢かれた人がいる」
1102日【情報】京成線 うすい駅~ユーカリが丘で人身事故「女性の身体の一部が切断されてる。バラバラや」
1101日【情報】JR東日本 外房線 大網~永田駅間で発生した人身事故の影響で、現在も運転を見合わせています。
1101日【情報】栗橋~新古河駅間で発生した人身事故の影響で、南栗橋~栃木駅間の運転を見合わせています。
1101日【情報】東武東上線 〔坂戸(埼玉)~池袋〕止まってる/ 下赤塚で人身事故発生運転再開不明




2016年10月21日金曜日

特異なものを恐れるのではなく、むしろ讃えよ


 東京のある活動家が、名古屋に遊びに来てくれた。誰ということは書かないが、精力的に動くことで知られている30代の活動家だ。
 彼は東京を離脱して、海外に退避するという。日本を離れる前に名古屋に立ち寄って、私に会いに来てくれたというわけだ。

 放射能汚染を逃れるために移住するという一般的な解決策は、事故直後には激しい抵抗を生んだものの、しだいに人々に受け入れられつつある。きっかけは体調不良によるものかもしれないし、隣人の死かもしれない。あるいは、隣人の死を顧みないこの社会の酷薄さを目の当たりにしたからかもしれない。この5年間、退避措置も防護対策も取らず従業員を被曝させるままにしてきた経営者が、若い部下の葬儀に参列する。彼が沈痛な面持ちをしているとしたらそれは、部下の死を悼むという素朴な感情であるよりも、自分の責任を追及されたくないという防衛機制が働くからだろう。そんな破廉恥な場面に遭遇したことで移住を決断するということは、ありそうなことだ。

 さて、いまさらむしかえして問うてみたいのだが、汚染地帯から退避するという単純で一般的な解は、なぜ「一般的に」受け入れられることがなかったのだろうか。
 人間と放射性物質は共存できない。放射能汚染からは退避する以外に方策はない。そのことはみなわかっている。しかし多くの人々は移住という解決策を避けてきた。
いろいろな理由が考えられ、口にされる。移住資金がない、借金がある、仕事を失いたくない、学校を替えたくない、東京以外に身寄りがない、老いた親の世話をしなければならない、等々。だがそれらの「理由」は、自分の生命と天秤にかけて考えるほど重要なものではない。だから人々が口にする「理由」は、正確には理由とはいえない。
 実際のプロセスはこうだ。人々は、自分の生命とその他の要素とを天秤にかけているのではなく、そもそも自分の生命を考慮の対象にすることを避けているのである。
いやそんなことはない、誰だって自分の生命を第一に考えている、と言うかもしれない。違う。自分の生命を第一に正面から考える人間は、実際には多くない。

 生命は、具体的であり、卑近なものである。それぞれに特異で、一回的なものである。かっこいいフランス語の概念で言えば、“サンギュラリテ”だ。いや、かっこいい言い方はやめよう。生命とは、卑近なものである。生命を第一に考えるということは、卑近なものを思考の中心に据えるということである。
 たとえば体調不良の話をしたとする。自分の体調でもいいし、子供や親の体調でもいい。体調とは、個別的で、具体的である。それらは病気によるものや、老化によるもの、事故や労働災害、先天的な障害、さまざまな要素が複合し絡まりあっていて、とりとめがない。けっしておもしろい話ではない。話している人間も聞いている人間も、どちらもうんざりするような話なのである。生命は傷つきやすく不可逆的に老いていくものだから、生命を正面から考えるということは、おもしろくない課題を次から次へ何度も何度も考える、ということだ。
 現在のわれわれの知性にとって、これは苦手な領域である。学校で何年も勉強をしてきたわれわれが「これが知性だ」と信じている「知性」は、一般性や再現性に依拠している。一般的でない特異なもの、再現できない一回的なものを、思考の対象にするということができない。そういう訓練をしていないのである。
 教養のある人々が移住を決断できなかったり、教育のない主婦が移住を成就させていたりするのは、われわれが「知性」だと信じているものが、生命を思考の中心に据えるための基本的な枠組みを持たないからである。学校で教わった「知性」を頼りに、一般性や再現性にこだわればこだわるほど、生命を考えることから遠ざかってしまう。自分が壊れやすい肉塊にすぎないという単純な事実を忘れてしまう。こうした錯誤は、観念論ではないが、充分に唯物論的でもない、中途半端な何かだ。

 私は幸いなことに、フランスの現代思想をかじって「特異なものにこそ普遍性がやどる」みたいなこじゃれたことを言っていたから、助かった。こういうフランスっぽいこじゃれた主張は、文学的にすぎるといって敬遠する向きもあるが、誤解である。これは唯物論的思考なのである。

そう。特異なものを忌避するのではなく、思考の中心に据えよ。


 特異性を恐れるのではなく、むしろ讃えよ。

2016年10月9日日曜日

新自由主義の黄昏



 9月23日、IМF(国際通貨基金)はギリシャの国際債務について、「追加の負担軽減策が不可欠」との声明を出した。ドイツなど欧州の金融機関に、負担軽減を求めているということだ。
 IМFが銀行に対して債務の軽減措置を求めるなど、10年前なら考えられないことだ。

 2008年のリーマンショック以降、G8体制は崩れ、中国を含めたG20が世界の経済政策の基調を作っている。G8からロシアを外したG7は、G20に対する主導的立場を失っている。2000年代までは、G8/IMF体制によって、緊縮政策と管理貿易の廃棄(彼らの言う「自由貿易主義」)が世界を席巻していたが、そうした新自由主義政策のでたらめな要求は世界諸国で受け入れられなくなっている。
 そうして現在、アメリカの共和党大統領候補トランプは「モンロー主義」への回帰を掲げ、対する民主党候補クリントンは、新自由主義政策を公然と主張することができなくなっている。新自由主義の神話が崩れたのだ。新自由主義政策がすべての人々を豊かにする、という神話が。


 おもしろい。 
 原子力と、新自由主義と、二つの神話が崩壊していく時代に、私たちは立ち会っている。

 未来はきっと良くなる。

2016年9月27日火曜日

「母性主義」という言葉の誤用について



 放射線防護に取り組む主婦に対して、また、子供を連れて退避している自主避難者を指して、「母性主義」という誤った指摘をする者がいるようなので、ひとつ文章を書いておく。

 まず、母性主義とは何か。正確に言おう。母性主義とは、家父長的支配関係のなかで、家事や育児など再生産に関わるさまざまな労働を女性に押し付ける際に、その労働の押し付けを正当化するための道徳・イデオロギー、である。
 母性主義は、母親である者たちが信じているイデオロギーではない。母性主義とは、母親ではない者たちが母親である者にさまざまな難渋な仕事を押し付ける際に、その押し付けを正当化するイデオロギーである。
 たとえば児童の放射線防護について、母親たちは市民測定や行政交渉などに懸命に取り組んできた。これは母性主義ではない。ここで母性主義とは、児童の放射線防護対策を、もっぱら母親たちに任せっきりにしている人々のイデオロギーである。児童の放射線防護は母親たちだけがやればよい、母親がやるのが当然である(自分にその責務はない)という考え方である。
「子供は社会全体で育てるもの」という綺麗な理念はある。しかしその理念を文字どおりに信じて実践した者は、残念ながら少なかった。多くの人びとは、「自分には子供がないから」とか「自分はもう子育てを終えた老人だから」とかいう理由で、児童の放射線防護対策を担うことがなかった。もっとも重大な被害が想定される児童について、対策を放棄した。多くの人びとがこの問題への取り組みを放棄してしまったために、母親たちの闘いは社会的に孤立した状態におかれてしまった。このように母親たちを孤立させて、その状態を自明視させているのが、母性主義イデオロギーである。
 児童の放射線防護対策は、部分的なものにとどまっている。なにより地震の被災地では、初期被曝を避けることができなかった。だから、これから多くの子供たちが被曝の被害に苦しむことになる。自分の子が被曝症状に悩まされたとき、母親は「自分がしっかりしなかったからだ」と自責の念を抱く。これは母性主義ではない。人間が一般的にもつ責任意識である。このとき、児童の放射線防護のために何も働かなかった者たちが、「母親がしっかりしなかったからだ」と責任を押し付けてくる。子供本人にたいして「自己責任だ」と言うわけにはいかないので、「母親の責任だ」ということにしてしまう。これが母性主義イデオロギーである。
 実際に放射線防護に取り組む人びとは、そうした展開を予測したうえで動いている。子供の健康状態になにか異変があったとき、他人は助けてくれない。子供を病院に連れていったり、医療情報を調べたり、金策をしたりという作業を担ってくれる人はいない。舅や姑は「気にしすぎだ」と言うが、そういう人間は実際に健康被害があった時に「自分の判断が間違っていた」と反省して子供の看護を積極的に担うということはない。まずい状態になったときには、彼らはしらばっくれるだろう。そして面倒なことはすべて母親に押し付けることになる。そうした展開になることを予見した母親は、放射線被曝をぜったいに予防しようと決めるのである。彼女は、この社会の母性主義イデオロギーが自分にどれほど困難な作業を押し付けてくるかを予期したうえで、それを予防するために、子供の防護対策をとっているのである。これは母性主義ではない。反母性主義である。
 子供の放射線防護のために果敢に闘っている母親の姿を見たとき、いったい彼女を突き動かしている衝動は何かということを、考えるべきである。そのありようを「母性主義」と呼ぶのは、間違いである。それは、たんに学術的に間違いであるというだけでなく、女を動物のようにみなす差別的な意識・習慣によって生じた間違いである。

 あるいは、穿った見方をすれば、こういうことかもしれない。
大学人から見て、家庭にある主婦というものは、もっぱら家父長的支配を受忍する存在、蒙昧な意識、自立していない女、と見えているのかもしれない。もしもそうだとしたら、それは間違った先入観である。
 もっと謙虚になってこう考えてみるべきだ。
 家庭にある主婦が家父長的支配関係におかれているのと同じ程度に、大学人もまた家父長的支配関係におかれ、不自由さと蒙昧さを生きているのではないか、と。
自分自身がおかれている条件・環境を精査してみるべきだ。自分が主婦とどれほど違うのか、違わないのか、みておくべきだ。






2016年9月9日金曜日

被曝者が書くということ


 いま少しだけ編集者のような作業をしている。
雑誌に特集の企画をもちこんで、何人かの執筆者に原稿を依頼した。もうほとんどの原稿が集まったのだが、まだ入稿していない執筆者に催促をしている段階である。これから原稿を並べて、目次を作らなくてはいけない。
 今回は自分の原稿を書くだけでなく、他人の原稿にも口を出して、書き直しや推敲を求めた。
 特に山の手緑の原稿については、内容に踏み込んで議論をした。この二ヶ月間、顔を合わせるたびに原稿の話をした。もともと作文が得意でないうえに10年近く執筆作業から退いていた人間に、いま決定的な内容を書けと要求するのだから、これはかなり大変な作業だった。むかし共同執筆をしていた20代の頃とは違う。二人とも体力が落ちていて、ちょっと考えるとすぐに息切れしてしまう。若い頃のように知恵熱を出すことはなくなったが、徹夜ができなくなったし、老眼と腰痛がひどい。すぐにくたびれてしまう。それでもなんとかがんばって、内容のある文章ができたと思う。



 40代も半ばになると、老いを意識する。自分はあと何年やれるだろうかと考える。生きている限り、書くことはできるだろうとは思う。だが、内容のあるアクチュアルな議論を展開することができるのは、あと何年だろうか。
 老いに加えて、私は被曝者である。山の手緑もそうだ。このことは西日本の人々はあまり意識していないようだからあえて書くが、我々は東京で被曝した人間である。初期被曝を被った人間は、心臓や脳に爆弾を抱えている。いつ絶命するかはわからない。人間はいつ絶命するかわからないという一般論として言うのではなくて、それ以上に、残り時間のわからない人間である。
 私は自分の残り時間を考えるように、他人の残り時間も想像している。今回原稿を依頼した執筆者のなかには、初期被曝者もいれば、そうでない者もいる。放射線防護の取り組み方もそれぞれに違う。たとえば今回、東京の園良太くんに原稿を依頼したが、彼の文章を読むのはこれが最後になるかもしれない。そういう覚悟をしなくてはならない。1年後も2年後もずっと議論ができるだろうというのんびりした構え方はできない。提起された議論に応答しようとしたら、相手が死んでしまったということが、ありうるのだ。

 被曝者はあてにならない、と言いたいのではない。たしかにそういう一面はある。仮に私が会社の人事部であったなら、被曝者を雇ったり重職につけることは避けるだろう。いつ死んでしまうかわからない人間なのだから。しかし私が言いたいのはそこではない。
 私が言いたいのは、明日の朝自分が絶命しても、あるいは相手が絶命しても、それで終わりになってしまわないような水準で文章を書かなくてはならない、ということだ。死んでしまったらはいおしまいというような議論なら、最初からやらなくていいじゃないか、ということだ。
 逆にこう言ったほうがわかりやすいかもしれない。大量の被曝者を抱えた社会というのは、言い換えれば、生者と死者との輪郭が不明瞭になった社会ということだ。そこで文章の価値というものを決めるのは、生者だけではなく、生者と死者を貫通する意識である。生者だけで講評をやって、意味があるねえとか意味がないねえとか言うことは、できなくなる。そんなやり方では価値がいっこうに定まらない。ある文章の価値、「社会的意義」は、生きている者だけでなく、生きられなかった者も含めて、論争されなければならない。そういう社会になるのだ。
 


2016年8月31日水曜日

ケータイ復帰しました

業務連絡。
ケータイが復活しました。


業務連絡ついでに、雑誌『情況』の小特集の件ですが、原稿を依頼したみなさん、どうでしょうか。 締切です。

 私の原稿は、今夜入稿します(予定)。

まだ入稿していない方は、電話をください。相談しましょう。
あ、でも今夜はダメです。
今夜は自分の分でいっぱいいっぱいです。

2016年8月27日土曜日

RADIO KY 『シン・ゴジラ』 

いやー、つかれた。
ふだんハリウッド映画ばかり観ていると、日本映画を観たときに、どっと疲れる。
しかもこの『シン・ゴジラ』のひと月前に観たのが、『トランボ』という名作だったので、二つの作品の落差がひどくて。
あんまりだよ、日本映画。





2016年8月23日火曜日

ケータイ落としちゃった

今日、『シン・ゴジラ』という映画を観に行ったのだが、映画館でケータイ落としちゃった。いたい。

ついでに映画もイタかった。庵野という人の作品は初めて観たのだが、そうとうイタい人だね。恥ずかしくなっちゃった。


そういうわけで、これから数日間、電話が通じません。

すみません。

2016年8月22日月曜日

『シン・ゴジラ』、、、観るかぁ(;´д`)

今週収録するラジオKYで、映画『シン・ゴジラ』について論評します。

これは賭けです。だって、まだ観てないんだもの。これから観るんだもの。
で、この新作映画に拾うべきものがあるかどうかは、まったく未知数なわけです。
だから、いまここで「やるよ」と言っておかないと、映画の途中で気が変わって企画が立ち消えになってしまう可能性があるので、予告します。

 これから『シン・ゴジラ』を観ます。
 2011年の事件以後に、日本映画としてつくられた最初の「ゴジラ」が、どういうものになっているのか、観てきます。
で、論評します。

こわいなー。


2016年8月8日月曜日

天皇の政治介入をゆるすな

今日の午後、天皇アキヒトがビデオメッセージなるものを公開したが、ずいぶん踏み込んだ内容だった。
天皇の生前退位という制度変更を、なんと天皇みずからが提案している。驚いた。
象徴天皇制のカカシであるべき者が、制度をどうこうしろと口を出してきたのである。

黙れよアキヒト。


 体力がない、あるいは体調が悪いのなら、国事行為などぜんぶ欠席して代理人を派遣しておけ。そうしてゆっくりとフェードアウトしていけばよいのだ。天皇の国事行為を切れ目なく運営することなど、誰も積極的に望んではいない。それを望んでいるのは皇族だけだ。

 天皇が天皇制の延命のために制度に介入しようというのなら、それは象徴天皇制の前提をひっくりかえすような事態だ。
こんな政策提言はぜったいにとりあってはならない。



追記

 怒りがおさまらないので、もう少し書く。

 天皇の生前退位という議論は、何から起因しているものなのか。また、この制度変更にむけた策動は、何を目指すものなのか。

 まず、天皇自身が表明した危機感を見てみよう。
アキヒトが表明した危機感は、高齢による体力低下によって、従来のように国事行為に出席し続けることができない、ということだ。天皇が国事行為に出席できないことは困ると、アキヒトは言っているのである。これは、先代のヒロヒトには見られなかったアキヒトに特有の危機意識である。
 どういうことか。
 アキヒトは、タレントとなった初めての天皇である。アキヒトは、宮中の奥に鎮座して神のように畏怖される天皇ではない。彼は国民に親しまれるべく、つねに国民の視線に働きかける天皇である。彼は皇太子の時代から映像メディアに露出し続けてきた。軽井沢でテニスを楽しみ、平民の娘と結婚し、二男一女をもうけ、そうした私生活のすべてをメディアに露出させてきた。だから我々は皇族の顔も名前も知っているのである。日本人は天皇家の構成員をよく知っていて、まるで芸能人の話題を口にするように天皇家の話題を口にするようになった。これはアキヒトの前にはなかったことだ。先代のヒロヒトがつねに政治的な焦点になったのに対して、アキヒトは人畜無害なタレントのように振舞うことで、天皇制と皇族の延命をはかってきたのである。
 それ以来、天皇は出ずっぱりである。天皇だけでなく皇太子夫婦も、カメラの前に立たなくてはならない。皇族が国民の視線を避けて宮中にこもることは異常なことだとみなされるようになった。彼ら皇族はいっときも休むことができない。ヒロヒトが病に臥せったような仕方でアキヒトが病に臥せることはできないのである。

 生前退位という制度変更によってアキヒトが目指しているのは、天皇家のタレントとしての活動に間隙をつくらないということだ。自分が元気なうちに皇位を継承し、あとはゆっくりと隠居したいと言っているのである。このスムーズな皇位継承の必要性をアキヒトは、国体を護持するためであるとしている。天皇家のタレント活動に間隙が生じてしまえば、国体は危機にさらされるのだ、という主張だ。
 まったくバカバカしい。
 国体などというものは、存在しない。ただの妄想だ。仮に国体なるものが日本の一部に存在しているのだとしたら、それは解体・清算すべきものである。

 国体などという妄想が、われわれに何をしてくれたというのか。福島県の放射能汚染によって数十万の家族が離散し、棄民化しているときに、国体は何をしていたのか。問題に口をつぐみ、腕をこまねいて、東電の公害隠しに加担したのではないか。私はアナキストだからこういうのではない。一人の民族主義者として、国体など存在しないと言うことができる。
 老天皇が手を振って護持してきた国体は、5年前の3月にぶっこわれたのだ。


2016年8月5日金曜日

桃ならいらないキャンペーン実施中

いまちょっと忙しいので、てみじかに書きますが、桃関係の押し売りがひどい。
グイグイきてます。
ケーキ、菓子パン、アイスクリーム、あらゆるスイーツに桃がねじこまれている状況です。

きっぱり言いましょう。
「桃はいらない」と。


福島県の桃おしがひどすぎて、桃という字を見ただけで食欲が失せる。

いらないってば。


2016年7月25日月曜日

谷垣幹事長の入院


 自民党の元総裁で、現幹事長の谷垣が、重症である。
 自転車で転倒して、脊椎の手術をしたという。
 おそらく、放射線の内部被曝によって、脳幹や小脳の機能が低下していて、受身が取れなかったのだろう。

 谷垣は、野党時代の自民党を率いたツワモノである。彼が幹事長職を降りるという事になれば、自民党にとって大きな転機になるだろう。
 自民党は分裂するかもしれない。
 大阪でも東京でも、自民党は分裂の兆候を示している。沖縄と東日本の選挙区では自民党は勝てなくなっている。そして谷垣幹事長の入院だ。

 これは楽しみだね。

2016年7月23日土曜日

セックススキャンダル


東京都知事選挙にはまったく関心はないのだが、鳥越候補をめぐる「セックススキャンダル」は、けっこうおもしろい。
 おもしろい、というのは、その内容ではなくて、政治的文脈である。
 政治的に左派に位置する政治家が、「セックススキャンダル」を告発され、右派が攻撃するという構図は、日本では初めてではないだろうか。日本では、セックススキャンダルを告発されるのはたいてい保守政治家である、と相場は決まっていた。
 しかし今回は違っている。左派に位置する政治家が、性的な問題で攻撃されているのだ。まるでアメリカだ。1990年代、アメリカ民主党の大統領が、ホワイトハウスで女の子といろいろやっていて、それがバレて、共和党からさんざん攻撃された、あの事件を思い出す。
日本の右翼勢力は、アメリカの宗教右翼のような性道徳主義戦略を、自家薬籠中にしたということだろうか。まあそういうことなんだろう。

 日本の宗教右翼勢力は、20年前から、性道徳の純潔主義を唱えてはいた。彼らは夫婦別姓に反対し、婚外子の権利に反対し、同性婚に反対してきた。カトリック系右翼はアメリカの宗教右翼と同様に、堕胎に反対していた。しかし、「左翼が性道徳を破壊する」という彼らの主張は、いまひとつ説得力がなかった。なぜなら、日本では左派政治家の方がピューリタン的というか品行方正で、保守政治家の方が性道徳的にだらしなかったからだ。だから宗教右翼の純潔主義は、議会外の陳情活動などで、しこしことやるしかなかったのである。
 しかしこれからは潮目が変わるかもしれない。乙武や鳥越という微妙な感じの人たちが、議会政治の表舞台に出て、宗教右翼にとってかっこうの標的になってくれたのだ。
これが、石田純一ぐらい腹が据わっていると(不倫は文化)、攻撃しづらい。
鳥越ぐらいがちょうどいいのだ。

 これはほんと微妙な感じなのだが、政治的な流れを考えれば、鳥越を全力で擁護しなくてはならないだろう。
 なぜならファシスト的な右翼運動は、小さなところから徐々に侵食していくからだ。婚外恋愛を糾弾したあとには、同性婚を糾弾し、バツイチを糾弾し、最終的には自由恋愛なんかいらないと言い出すだろう。彼ら宗教右翼のなかには、信者に集団結婚を強要するようなカルト集団も含まれているのだから。要注意だ。


2016年7月21日木曜日

6年目の夏に



 夏至を過ぎて、すっかり日が長くなった。朝4時台には空が明るくなり、夕刻7時すぎまで陽が落ちない。
 毎年、初夏から秋にかけては、街頭行動の季節である。
 2011年から2015年まで、この季節は街頭デモがさかんに行われてきた。2011年、2012年の反原発運動、2013年の「反秘密保護法」、「反ヘイトスピーチ」、2015年の「反改憲」。そして今年はなんだろう。11年以後に興隆した国民運動は、そろそろ息切れしているようだ。

 関西の「反ヘイトスピーチ」派がひき起こした内部暴力事件が明るみになって、「国民運動」は一つの節目を迎えているように見える。もう終わりだ。共産党の一部分子と、小児病リベラルと、メンタルのあぶなっかしい右翼が、いきおいにまかせてさんざんやらかしてきた結果が、これだ。
 関西の暴力事件が明るみになって、小児病リベラルの諸君は、いま暴力についてごちゃごちゃ考えていることだろう。だが、あまり時間をかけて考えていられる状況ではない。「国民運動」後の実践に向けて、次のフェーズが始まっているからだ。こんな無様な事件はちゃっちゃと終わらせてしまおう。

 今回の事件で教訓化するべきは、こうだ。
 暴力を否定する者、暴力を忌避する者は、暴力にはまる。
自分の暴力を正面から肯定する者は、それほど危険ではない。危険なのは、自分の暴力を否定する者だ。
以下、略。
 これ以上書くと、自分で考えないで解答だけコピペするやつが出てくるので、書かない。

 しかし、まあ、なんだ。
 口うるさい統制屋が意気消沈しているのは、気味が良い。

 ようやく本当の議論が始められそうだ。

2016年6月27日月曜日

歴史をねじまげる老害問題

『既成概念をぶちこわせ』のまえがきに、編者のひとり杉村昌昭氏はこう書いている。

 本書を企画するきっかけは、編者のひとり境毅氏が、若い人たちが「社会運動」の歴史をあまり知らないので、若い人たち向けの「社会運動事典」のようなものをつくれないかという相談をしに、昨年夏私のもとを訪れたことである。

 境毅とは、関西の老活動家である。長年「榎原均」という筆名で書いていたから、その名前の方がわかる人が多いと思う。

 で、問題はこの「社会運動事典」に掲載されている「デモ活動」という項目である。Tという著者が書いた「デモ活動」の文章はこうだ。
 大勢の人たちがデモに参加したのは、1960年の安保闘争にはじまる。この時は労働組合は、動員費が支払われた組織動員であったが、学生運動の方はクラス討論を積み上げて、学生大会でストライキやデモ参加決議をあげて参加し、学生自治会が運動の中心であった。安保条約改定の強行採決以降、この運動はより一層広範な人々の担うところとなり、原水爆禁止運動から始まっていた市民運動の人たちも運動に参加した。安保闘争後デモに人が来なくなり、運動が停滞していた時に、ベトナム反戦運動を呼びかけたベ平連がこの安保闘争末期の市民運動を復活させ、そして再び1970年に反政府運動は昂揚し、労働者は反戦青年委員会の運動、学生は全共闘運動を起こし、また武装闘争も取り組まれた。しかし、当時のデモ参加者たちは、デモが終わると、デモが終わると日常生活に戻り、秩序のうちに回収されていた。それもあって、その後2011年の原発事故までは、大規模なデモはみられなくなっていた。
 あのね。
 一文一文が、すべてまちがい。
 書き出しにある「1960年の安保闘争にはじまる。」、これは重大なまちがい。最後にある「その後2011年の原発事故までは、大規模なデモは見られなくなっていた。」、これもまちがい。社会運動史の断片を切り取っているというだけでなく、嘘まで書いている。ひどい文章だ。
誰が書いたのか知らないが、よくこんなものをボツにしないで通したな。まったく呆れてものが言えない。このTという学生が本当に実在するかどうかわたしは知らないが、この特殊な歴史観は普通の学生じゃないだろう。ウィキペディアを見てコピー&ペーストしたら、こういうストーリーにはならない。ただものを知らない学生が書いたというのではこういう文章にはならない。
これは、特殊な老害左翼が学生の耳元に珍説を吹き込んだか、二人羽織で書いたかの、どちらかだ。ていうか、これ、ほとんど榎原均だろ。
やってくれたな。

 わたしはこの「事典」の共著者として、二つの項目を書いている。で、よくわからない老害の自己宣伝に付き合わされてしまった形だ。なんで私や山の手緑や、太田さんや天野さんが、共産主義者同盟の特殊な歴史観の、そのなかでも劣悪な部分に付き合わされなければならないのか。こういうものを放置すると私の評判に傷がつくので、はっきり言っておくが、この「デモ活動」という項目は書き直しだ。0点だ。
まず戦後の公安条例の成立とその契機となった阪神教育闘争について勉強するべきだ。大衆デモが60年安保闘争から始まるなんて珍説は、とんでもない自民族中心主義だ。自民族中心主義による歴史修正だ。


ばかものが。

2016年6月19日日曜日

『RADIO KY』 しばき隊暴行事件についての所感

ひさしぶりにRADIO KY を収録しました。
今回は、関西のしばき隊関係者が起こしたリンチ事件(DV事件)について。







2016年5月27日金曜日

『伊藤野枝伝』をいただきました

栗原くんから献本をいただきました。ありがとう。




『村に火をつけ、白痴になれ~伊藤野枝伝』栗原康著 岩波書店

本の内容については、言及を控えます。
かわりに、現代のフェミニズムについて私が考えていることを書いて、書評にかえます。



 フェミニズムは近代思想の中でもっとも危険な思想です。それはラディカルであると同時にポピュラーであり、諸科学を包摂する理論的な大きさを備えています。
にもかかわらず、いや、だからこそと言うべきか、フェミニズムほど誤解やデマゴギーにさらされてきた思想はありません。フェミニズムに関する人々の理解のほとんどは、デマと短絡とレッテル貼りで構成されていると言っても言い過ぎではない。フェミニストがおこなってきた活動の成果と、一般に流布している「フェミニズム」のイメージは、おどろくほど乖離しています。フェミニストの研究成果が正面から評価されることは少なく、反対に、その成果への心理的抵抗と否認が「フェミニズム」の通俗化を推し進める主たる要因となってきたということがあるのです。


 まわりくどい言い方はやめて、ざっくばらんに。
 第一次世界大戦以降、社会はおおきく変化してきました。なかでも最も大きな変化を遂げてきたのは女性です。女性の役割、社会的地位、生活様式、イデオロギーは、ダイナミックに変化してきました。近現代の社会史を考えるときに、女性のありかたがどのように変化してきたかを無視することはできません。いや、社会史のほとんどは女性史に置き換えることができると言っても言い過ぎではありません。
 そこでまず率直に認めるべき事実は、女性とは歴史的存在であるということです。女性は不変の存在ではなく、時代の変化の前衛に位置し、現代の現代性を先鋭的に表示している、ということです。
 たとえば私が「主婦」と書くとき、それは、現代の主婦です。私がフォーディズムとポストフォーディズムの労働力編成の変化について論じるとき、そこには現代のもっとも現代的な主婦が含まれています。「マルチチュード」や「アンテルプレケール」という概念についてもそうです。現代社会のもっとも現代的な様相を体現しているのは、女性であり主婦である。だから、現代資本主義を分析しようとするときに、「ポストフォーディズム」や「認知資本主義」といった概念を検討するのと同じだけの情熱をもって、現代の女性、現代の主婦に、目を向けるべきなのです。議論の中心にするべきは、彼女たちが体現する現代性です。
 卑近な話をすれば、私はもういまさら20世紀のような「ブルジョア家族モデルにおける専業主婦」みたいな終わった話はしたくないのです。時代はどんどん変化していて、資本蓄積の様態も、主婦の様態も、日々更新されているのだから。昭和のフォーディズム時代の「専業主婦」なんてものは、いまどきそうとう珍しいものになっていて、そんな懐かしいモデルを前提にして「主婦」はどうのこうのと言われても、困る。そんな議論は、わら人形をいじっているのと変わらない。論外です。たとえるなら、ケインズ主義経済学の「トリクルダウン」モデルが失効したように、「専業主婦」の標準モデルは失効しています。いつまで昔の話をしているんだ、ということです。
 議論されるべきは、主婦が体現する現代性です。それは現代という時代をきちんと見るということでもあります。


 さて、いま若い研究者によって『伊藤野枝伝』が書かれて、なぜそれが書かれているのか。そこでなにが読まれていて、読まれるべきなのか。
 私なりに控えめに言うならばそれは、女はめちゃくちゃだ、ということです。
現代日本には6000万人の女がいて、そのすべてがめちゃくちゃだとは言いませんが、そうとう多くの女性たちが、伊藤野枝のような猛々しさをもって生きている。為政者に向かって「お前は権力をもっているが、私より弱い」と言い放つ。そういうありかたは特異なものに見えて、実はとてもありふれた態度でもあるということです。
 私はいま深夜のファミリーレストランで原稿を書いていますが、私の席にコーヒーを配膳するウエイトレスの中年女性がどんな暮らしをして何を考えているのか、私は知らない。彼女が伊藤野枝であったとしても、まったく不思議ではない。そういうことは充分にありうることです。彼女が仕事帰りに何を想うかということを、私は知ることができないが、無関心ではいられない。そこには、この社会を根底から揺るがすポテンシャルが内蔵されているからです。

 こういうことを書くと、極端にロマン主義的な主張だと受け止められるかもしれませんが、そうではありません。
 歴史を参照してみてください。日本の近代思想を飛躍的に前進させたのは、いまから百年前の「大正デモクラシー」です。「大正デモクラシー」の出発点となったのは、1918年の米騒動です。米騒動の起点となったのは、富山の漁村の「女一揆」です。
富山の「女一揆」が日本中の人々に教えたのは、米はあるということ、米は商社によって買い占められているということでした。この啓蒙から「大正デモクラシー」が始まります。彼女たちは下層階級にある無学な主婦でしたが、当時のどんな知識人よりも簡潔に雄弁に、資本主義社会の仕組みを人々に教えたのです。これは知識人はあまり認めたがらない事実ですが、日本の近代思想・民主化運動は、下層の女たちの直接行動によって開始され、爆発的に普及したのです。日本は啓蒙主義思想の希薄な後発国ですが、それでもかろうじて人権概念が普及するにいたったのは、米騒動のおかげです。女がめちゃくちゃに暴れたから、われわれは人権概念を知るにいたったのです。
 伊藤野枝はそんな時代に生きためちゃくちゃな女の一人です。伊藤野枝は一人ですが、一人ではない。無数の「伊藤野枝」がいたし、現在もいるのです。



2016年5月5日木曜日

放射線防護講座のページを新設

YOUTUBEで公開している『中学生からの放射線防護講座』全10回を、一箇所にまとめておきました。

放射線防護講座
http://thoughtofantirad.blogspot.jp/


一回の動画を15分程度でまとめているので、大人の初学者にもおすすめします。

転載・拡散など歓迎です。

2016年4月27日水曜日

原子力とその家臣団



 熊本大地震の対応に関連して、日本共産党は震源地の南にある九州電力・川内原発を停止させることを国に要求した。
 対して、労働組合のナショナルセンター『連合』を支持母体にする民進党は、共産党と同じく川内原発の停止を要求しようとしたが、結局とりさげた。
 川内原発で働く九州電力の社員たちは、その多くが電力総連の組合員であり、『連合』傘下にある労働者である。地震によって原発がスクラムした場合、あるいはベントを必要とした場合、あるいはもっと手の付けられない過酷事故に見舞われた場合、その対応にあたるために高線量被曝の死線をさまようのは電力総連の労働者たちであるわけだが、『連合』はそうした事態を事前に承認してしまったことになる。『連合』は組合員の生命を国にあずけてしまったわけだ。


 ロベルト・ユンクの名著『原子力帝国』では、フランスの電力会社でおきた事例を挙げて、原子力産業が労働者のストライキ権を失効させてしまったことを指摘している。
 原子力発電所の労働者は、他の部門の労働者と同様にさまざまな要求をすることができる。しかし、要求を通すための切り札であるストライキ権を彼らは行使できない。一般的な事業所であれば、労働の停止は事業の停止である。ストライキは誰も傷つけない無血の暴力である。しかし原子力発電所のストライキはそうではない。それは無血ではなく自爆的な暴力となってしまう。いったん原子炉に核燃料が装荷されてしまったら、かたときも目を離してはならない。誰かが常にモニターし、炉心の温度を制御していなければならない。核燃料は常に暴走の危機をはらんでいるからだ。フランスでは、原子炉の管理に関わる労働者が組合中執のストライキ指令をうけて、決行するか否かを検討し、結局ストライキを断念した。電力労働者のストライキは、原子力発電所を除外して実行された。それまで万能だと考えられていたストライキ戦術は、電力部門の一角で覆されてしまったのである。原子力労働は、近代的な労働概念から逸脱し、その破滅を予告する。


 石炭、石油、原子力というエネルギー政策の変遷を、労働者権力の可能性の歴史として振り返ってみよう。

 石炭エネルギーは、人間の労働力に強く依存する。石炭は、労働者がいなければ採掘することができない。炭鉱主は労働者と交渉しなければならないし、ときには労働者に譲歩しなければならない。労働組合運動の原型は、炭鉱労働者がつくりだしたものだ。

 石油エネルギーは、労働者に依存しない。石油採掘は労働力の動員を必要としない。かわりに、採掘権を占有する政治力・軍事力に強く依存する。アメリカ合衆国が近代的な労使関係を発達させることなく反共産主義体制を貫いてきたこと、また、自国企業の権益のためならば外国での軍事行動もためらわないことは、石油エネルギー時代の支配原理を体現したものだ。

 原子力エネルギーは、労働者を奴隷化する。原子力産業に関わる労働は、暴力団の強い関与を疑われたり、地縁・血縁を通じた氏族的支配関係を疑われたりする。原子力労働は、一般的な労働とは違うものだと人々はみなしている。この直感は正しい。
 石炭採掘が労働集約型産業の典型であったのに対して、原子力産業はその対極に位置する技術集約型産業である。技術集約型産業の力の源は、情報の占有と操作にある。技術集約型産業は秘密を管理し、対外的には嘘、印象操作、意味のない議論によって権益を維持する。秘密と嘘が、収益を実現するエンジンである。このとき労使関係とは、たんなる労働力商品の売買という明解で素朴なものではない。会社は、労使の区分を許容しない私党としての性格を強めていく。原子力モデルの労使関係は、成員の全てを秘密と嘘の共犯関係に巻き込んでいく私党的統治に向かう。ここで労働者が動員され搾取されるのは、筋力や技能や集中力ではなく、私党化した会社への忠誠心である。忠誠心は、前近代的でありもっとも現代的でもある、資本蓄積の原理である。

 原子力発電とその汚染をめぐる科学論争は、天動説と地動説の論争のような不毛さに満ちている。この論争に際して、労働組合がまったくなんの役割も果たさないでいるのは、こういうことがあるからだ。天動説はたんに誤った信念というだけでなく、ひとつの権益である。電力会社の社員たち、そして電力総連は、一つの国が滅びるかどうかという重大な局面にあっても会社への忠誠心を手放さない。炭鉱時代の労働者たちが、会社から自立した自我を保持していたのに対して、原子力時代の会社員は近代的自我を放棄している。彼らは私党に仕える家臣団のように、奴隷的労働を美化するのである。

 『連合』は電力総連を切り離すか解体するかしなければならない。この反社会的労働組合と共闘していたのでは、労働運動の大義は失われてしまう。人民の一般的意志から分離したところで労働運動を維持できると考えるなら、それは重大な誤謬だ。電力総連と民社協会に未来はない。早々に切り捨てるべきだ。




2016年4月16日土曜日

九州のみなさん、旅行をしましょう


 熊本大地震は、震度6の余震が続く強度の高い群発地震になっています。現在の震源は熊本市周辺ですが、今後の震源がこの範囲に収斂するとは限りません。東日本大震災の例を見れば、震源は動きます。

 九州電力は、鹿児島県の川内原発を停止させません。国も原発を停止させません。
 こうなれば、いまとりうる最善の選択は、川内原発から200km圏の住民が、予防的に退避しておくことです。
 原発がおかしくなってから動き出すのでは遅いのです。5年前の福島では、退避が間に合わず病院で亡くなられた患者が多数出ています。原発がベントしてしまったら、もう逃げる時間はほとんどありません。車にガソリンを給油している間に放射性物質を浴びせられることになります。

 先行的に予防的に200km圏外に退避しておくこと。これはけっして非現実的な妄想ではありません。福島の経験から得られたきわめて現実的な教訓です。
 とりあえず3日ほど九州から退避して、何もなければ戻ればいいのです。ちょっと小旅行をするつもりで、本州方面に退避しましょう。この旅は、5年前の東日本住民がどのような経験をしたのかを知る疑似体験の旅になるでしょう。

 森くん、ピンクさん、外山とその一派、九州に暮らす友人の皆さん、本州に退避してください。
 私のうちは名古屋ですが、5人ほど受け入れ可能です。



2016年4月1日金曜日

防護講座、第9回と最終回

放射線防護講座、ひとまず終了。

あとはサイトを作って拡散する方法を考えねば。



2016年3月31日木曜日

防護講座、第7回と第8回

第7回「測定結果の読み方」と
第8回「サンプル調査の読み方」を
アップしました。

第8回は、絵と図だけでやってみました。われながら極端。




2016年3月30日水曜日

防護講座第五回

第五回アップします。
いやあ。自宅にホワイトボードを設置すると、かなり便利だね。
一家に一枚ホワイトボード。おすすめです。


第六回もできちゃった。
楽しいなこれ。


2016年3月29日火曜日

YOUTUBEで放射線防護講座

『中学生からの放射線防護講座』、第三回と第四回を公開しました。

昨日、山の手緑さんがホワイトボードを買ってくれたので、私の部屋に設置しました。
これからは、いつでも好きなときに収録できます。


では第三回と第四回、どうぞ。



2016年3月16日水曜日

ラッツァラート『記号と機械』をいただきました



『記号と機械』――反資本主義新論

マウリツィオ・ラッツァラート 著
杉村昌昭・松田正貴 訳



 訳者の杉村氏から本をいただきました。
ありがとうございます。
ひさしぶりに書評のようなものを書きます。



 著者のマウリツィオ・ラッツァラートは、現代マルクス主義の理論家です。1968年のフランス「5月革命」と、70年代イタリアの「アウトノミア運動」以降に登場した「ユーロラディカリズム」の理論家です。
 ユーロラディカルの特徴は、社会民主主義やマルクス=レーニン主義といった既存の左翼潮流との思想的断絶にあります。彼らは社会民主主義者のように代議制(議会制民主主義)に依拠しません。マルクス主義者はだいたいそうです。そして彼らがマルクス主義者でありながら、レーニン主義者(共産党)と違っているのは、党を自明視しないということです。党や党に従属する組合というものを信用しないのです。それは彼らが経験した「5月革命」や「アウトノミア運動」というものが、党にも組合にも組織されない人々によって惹き起こされたという事実からきています。
 フランス「5月革命」は、社会党や共産党が指導するストライキではなく、大衆による(自然発生的に見える)ゼネラルストライキでした。イタリアの「アウトノミア運動」は、どんな政党も組織しなかった青年や女性による大運動でした。アウトノミア運動がオペライスモ(大衆主義)の運動と呼ばれるのは、それが党の指導を受けない雑多な人々によって担われていたからです。
 賃金労働者を労働組合に組織し、労働組合を中核として共産党を建設する、そうしたマルクス=レーニン主義の方法は、68年以降にほころびをみせはじめました。ヨーロッパのラディカルなマルクス主義者は、従来のレーニン主義の方法を再検討します。彼らは、それまで周辺的で従属的な存在とみなされていた人々、女性、青年、外国人労働者に、社会変革の原動力を見出すようになるのです。
 こうした思想潮流は、日本ではフリーター(非正規労働者)の労働運動にあらわれています。かつてフリーターは、党からも組合からもほとんど相手にされない存在でした。女性パート労働者や青年フリーターは、労働運動の周辺にある例外的な存在とみなされていました。しかし2000年代に、東京の青年労働者が独立した労働組合を結成します。彼らは既存の労働組合によって組織されたのではありません。彼らは独力で組合をつくり、既存の組合組織とは違った視点で、労働運動の再定義をはかります。つまり、女性や青年や外国人労働者は例外的な存在ではなく、むしろ、非正規労働者こそが労働運動の中核に位置づけられるべきである、と。そうして彼らは労働運動全体の支配的な考え方に変更を迫ったのです。



 さて。かたくるしい前フリはこれくらいにして、本題に入る。
 アウトノミアの理論家たちの特徴は、ユーモラスであることだ。ガタリにしてもネグリにしても、本書の著者ラッツァラートにしても、どこかユーモラスでおかしみがある。彼らは絶望的な状況のなかでも希望を捨てない。うまくいかないことばかりだが、あきらめない。七転八起。タフである。そして、けっして楽しい話題ではないきびしい現実を直視しながら、なぜか読み進めるうちに笑みがもれてくる。不思議だ。

 たとえば次のような一節。

「主観性の生産を「経済」から分離することができないのと同様に、主観性の生産は「政治」からも分離することはできない。政治的主体化をどのように構想するべきか? いかなる政治的主体化も存在に影響を及ぼす主観性の変化と転換を伴う。(…)
 主観性の変化は、まず第一に言説のレヴェルで現れるわけではない。つまり、言説、知識、情報、文化の次元において優先的に現れるのではない。なぜなら主観性の変化は、主観性の核心に位置する非-言説性、非-知、非-文化変容の場に影響を及ぼすからである。主観性の変化の基盤には、自己、他者、世界の存在論的な理解と肯定があり、この存在論的・情動的な非言説性の結晶化を起点にして、新たな言語、新たな言説、新たな知識、新たな政治の増殖が可能になるのである。」

 なんてことを言い出すのか(笑)。かりにも言葉で身を立てている人間であるならば、もう少し慎重にもってまわった書き方をするべきところを、たった数行で書いてしまっている。「主観性の核心に位置する非-言説性」て。ざっくばらんにもほどがある。楽しい。
 誤解がないように説明するが、私がここで「楽しい」と書くのは、一般的な意味で、「みなさんきっと楽しめるから読んでくださいね」という意味で「楽しい」のではない。またその反対に、「これは現代思想の素養のある人間にしかわからない高度なユーモアですよ」というのでもない。ここにあるおかしみは、一般的ではないが卓越したものでもない、そうした尺度をはずれた特異的、かつ、普遍的なおかしみだ。

 もう一度読んでみよう。

「主観性の変化は、まず第一に言説のレヴェルで現れるのではない。つまり、言説、知識、情報、文化の次元において優先的に現れるのではない。」

 なにが心に響くかと言って、私はいま日本の放射能汚染の渦中にあって、言説、知識、情報、文化に、うんざりしているのだ。
 まったくひどい状態だ。もちろん私だってあきらめてはいない。私は言葉を使って考えて、言葉を使って表現し、言葉で働きかける。仲間を求めてもいる。しかし現在流通している言説の表面をみれば、まあ惨憺たる状態だ。日本の言論人なんてのはアホと嘘つきと腰抜けばっかりだと思う。もう、絶望している。
 そんななかで、私はこう自問自答するのである。放射線防護に取り組んでいる人々、避難移住者、そして我々の子供たちは、今後どのようにして「政治的主体化」を構想することができるだろうか。それは可能だろうか。我々は言葉を失ったまま、沈黙して生きるしかないのか。
 いや、そうではないのだ、と、ラッツァラート(とガタリ)は言っている。
たしかに私は言葉を失い、文化を失い、なにもかも剥奪されてしまった。しかしそんな絶望的な状態におかれるなかで、「新しい言語」の起点となる「存在論的・情動的な非言説性の結晶化」を経験しているのだ、と。

 うん。
 たしかにいま私は、主観性の変化を経験している。そうだ。そうそう。すごいはげしい変化だよ、これは。

「新たな言語、新たな知識、新たな政治の増殖」。
 うん。
 なるほどね。