2016年3月16日水曜日

ラッツァラート『記号と機械』をいただきました



『記号と機械』――反資本主義新論

マウリツィオ・ラッツァラート 著
杉村昌昭・松田正貴 訳



 訳者の杉村氏から本をいただきました。
ありがとうございます。
ひさしぶりに書評のようなものを書きます。



 著者のマウリツィオ・ラッツァラートは、現代マルクス主義の理論家です。1968年のフランス「5月革命」と、70年代イタリアの「アウトノミア運動」以降に登場した「ユーロラディカリズム」の理論家です。
 ユーロラディカルの特徴は、社会民主主義やマルクス=レーニン主義といった既存の左翼潮流との思想的断絶にあります。彼らは社会民主主義者のように代議制(議会制民主主義)に依拠しません。マルクス主義者はだいたいそうです。そして彼らがマルクス主義者でありながら、レーニン主義者(共産党)と違っているのは、党を自明視しないということです。党や党に従属する組合というものを信用しないのです。それは彼らが経験した「5月革命」や「アウトノミア運動」というものが、党にも組合にも組織されない人々によって惹き起こされたという事実からきています。
 フランス「5月革命」は、社会党や共産党が指導するストライキではなく、大衆による(自然発生的に見える)ゼネラルストライキでした。イタリアの「アウトノミア運動」は、どんな政党も組織しなかった青年や女性による大運動でした。アウトノミア運動がオペライスモ(大衆主義)の運動と呼ばれるのは、それが党の指導を受けない雑多な人々によって担われていたからです。
 賃金労働者を労働組合に組織し、労働組合を中核として共産党を建設する、そうしたマルクス=レーニン主義の方法は、68年以降にほころびをみせはじめました。ヨーロッパのラディカルなマルクス主義者は、従来のレーニン主義の方法を再検討します。彼らは、それまで周辺的で従属的な存在とみなされていた人々、女性、青年、外国人労働者に、社会変革の原動力を見出すようになるのです。
 こうした思想潮流は、日本ではフリーター(非正規労働者)の労働運動にあらわれています。かつてフリーターは、党からも組合からもほとんど相手にされない存在でした。女性パート労働者や青年フリーターは、労働運動の周辺にある例外的な存在とみなされていました。しかし2000年代に、東京の青年労働者が独立した労働組合を結成します。彼らは既存の労働組合によって組織されたのではありません。彼らは独力で組合をつくり、既存の組合組織とは違った視点で、労働運動の再定義をはかります。つまり、女性や青年や外国人労働者は例外的な存在ではなく、むしろ、非正規労働者こそが労働運動の中核に位置づけられるべきである、と。そうして彼らは労働運動全体の支配的な考え方に変更を迫ったのです。



 さて。かたくるしい前フリはこれくらいにして、本題に入る。
 アウトノミアの理論家たちの特徴は、ユーモラスであることだ。ガタリにしてもネグリにしても、本書の著者ラッツァラートにしても、どこかユーモラスでおかしみがある。彼らは絶望的な状況のなかでも希望を捨てない。うまくいかないことばかりだが、あきらめない。七転八起。タフである。そして、けっして楽しい話題ではないきびしい現実を直視しながら、なぜか読み進めるうちに笑みがもれてくる。不思議だ。

 たとえば次のような一節。

「主観性の生産を「経済」から分離することができないのと同様に、主観性の生産は「政治」からも分離することはできない。政治的主体化をどのように構想するべきか? いかなる政治的主体化も存在に影響を及ぼす主観性の変化と転換を伴う。(…)
 主観性の変化は、まず第一に言説のレヴェルで現れるわけではない。つまり、言説、知識、情報、文化の次元において優先的に現れるのではない。なぜなら主観性の変化は、主観性の核心に位置する非-言説性、非-知、非-文化変容の場に影響を及ぼすからである。主観性の変化の基盤には、自己、他者、世界の存在論的な理解と肯定があり、この存在論的・情動的な非言説性の結晶化を起点にして、新たな言語、新たな言説、新たな知識、新たな政治の増殖が可能になるのである。」

 なんてことを言い出すのか(笑)。かりにも言葉で身を立てている人間であるならば、もう少し慎重にもってまわった書き方をするべきところを、たった数行で書いてしまっている。「主観性の核心に位置する非-言説性」て。ざっくばらんにもほどがある。楽しい。
 誤解がないように説明するが、私がここで「楽しい」と書くのは、一般的な意味で、「みなさんきっと楽しめるから読んでくださいね」という意味で「楽しい」のではない。またその反対に、「これは現代思想の素養のある人間にしかわからない高度なユーモアですよ」というのでもない。ここにあるおかしみは、一般的ではないが卓越したものでもない、そうした尺度をはずれた特異的、かつ、普遍的なおかしみだ。

 もう一度読んでみよう。

「主観性の変化は、まず第一に言説のレヴェルで現れるのではない。つまり、言説、知識、情報、文化の次元において優先的に現れるのではない。」

 なにが心に響くかと言って、私はいま日本の放射能汚染の渦中にあって、言説、知識、情報、文化に、うんざりしているのだ。
 まったくひどい状態だ。もちろん私だってあきらめてはいない。私は言葉を使って考えて、言葉を使って表現し、言葉で働きかける。仲間を求めてもいる。しかし現在流通している言説の表面をみれば、まあ惨憺たる状態だ。日本の言論人なんてのはアホと嘘つきと腰抜けばっかりだと思う。もう、絶望している。
 そんななかで、私はこう自問自答するのである。放射線防護に取り組んでいる人々、避難移住者、そして我々の子供たちは、今後どのようにして「政治的主体化」を構想することができるだろうか。それは可能だろうか。我々は言葉を失ったまま、沈黙して生きるしかないのか。
 いや、そうではないのだ、と、ラッツァラート(とガタリ)は言っている。
たしかに私は言葉を失い、文化を失い、なにもかも剥奪されてしまった。しかしそんな絶望的な状態におかれるなかで、「新しい言語」の起点となる「存在論的・情動的な非言説性の結晶化」を経験しているのだ、と。

 うん。
 たしかにいま私は、主観性の変化を経験している。そうだ。そうそう。すごいはげしい変化だよ、これは。

「新たな言語、新たな知識、新たな政治の増殖」。
 うん。
 なるほどね。