2016年5月27日金曜日

『伊藤野枝伝』をいただきました

栗原くんから献本をいただきました。ありがとう。




『村に火をつけ、白痴になれ~伊藤野枝伝』栗原康著 岩波書店

本の内容については、言及を控えます。
かわりに、現代のフェミニズムについて私が考えていることを書いて、書評にかえます。



 フェミニズムは近代思想の中でもっとも危険な思想です。それはラディカルであると同時にポピュラーであり、諸科学を包摂する理論的な大きさを備えています。
にもかかわらず、いや、だからこそと言うべきか、フェミニズムほど誤解やデマゴギーにさらされてきた思想はありません。フェミニズムに関する人々の理解のほとんどは、デマと短絡とレッテル貼りで構成されていると言っても言い過ぎではない。フェミニストがおこなってきた活動の成果と、一般に流布している「フェミニズム」のイメージは、おどろくほど乖離しています。フェミニストの研究成果が正面から評価されることは少なく、反対に、その成果への心理的抵抗と否認が「フェミニズム」の通俗化を推し進める主たる要因となってきたということがあるのです。


 まわりくどい言い方はやめて、ざっくばらんに。
 第一次世界大戦以降、社会はおおきく変化してきました。なかでも最も大きな変化を遂げてきたのは女性です。女性の役割、社会的地位、生活様式、イデオロギーは、ダイナミックに変化してきました。近現代の社会史を考えるときに、女性のありかたがどのように変化してきたかを無視することはできません。いや、社会史のほとんどは女性史に置き換えることができると言っても言い過ぎではありません。
 そこでまず率直に認めるべき事実は、女性とは歴史的存在であるということです。女性は不変の存在ではなく、時代の変化の前衛に位置し、現代の現代性を先鋭的に表示している、ということです。
 たとえば私が「主婦」と書くとき、それは、現代の主婦です。私がフォーディズムとポストフォーディズムの労働力編成の変化について論じるとき、そこには現代のもっとも現代的な主婦が含まれています。「マルチチュード」や「アンテルプレケール」という概念についてもそうです。現代社会のもっとも現代的な様相を体現しているのは、女性であり主婦である。だから、現代資本主義を分析しようとするときに、「ポストフォーディズム」や「認知資本主義」といった概念を検討するのと同じだけの情熱をもって、現代の女性、現代の主婦に、目を向けるべきなのです。議論の中心にするべきは、彼女たちが体現する現代性です。
 卑近な話をすれば、私はもういまさら20世紀のような「ブルジョア家族モデルにおける専業主婦」みたいな終わった話はしたくないのです。時代はどんどん変化していて、資本蓄積の様態も、主婦の様態も、日々更新されているのだから。昭和のフォーディズム時代の「専業主婦」なんてものは、いまどきそうとう珍しいものになっていて、そんな懐かしいモデルを前提にして「主婦」はどうのこうのと言われても、困る。そんな議論は、わら人形をいじっているのと変わらない。論外です。たとえるなら、ケインズ主義経済学の「トリクルダウン」モデルが失効したように、「専業主婦」の標準モデルは失効しています。いつまで昔の話をしているんだ、ということです。
 議論されるべきは、主婦が体現する現代性です。それは現代という時代をきちんと見るということでもあります。


 さて、いま若い研究者によって『伊藤野枝伝』が書かれて、なぜそれが書かれているのか。そこでなにが読まれていて、読まれるべきなのか。
 私なりに控えめに言うならばそれは、女はめちゃくちゃだ、ということです。
現代日本には6000万人の女がいて、そのすべてがめちゃくちゃだとは言いませんが、そうとう多くの女性たちが、伊藤野枝のような猛々しさをもって生きている。為政者に向かって「お前は権力をもっているが、私より弱い」と言い放つ。そういうありかたは特異なものに見えて、実はとてもありふれた態度でもあるということです。
 私はいま深夜のファミリーレストランで原稿を書いていますが、私の席にコーヒーを配膳するウエイトレスの中年女性がどんな暮らしをして何を考えているのか、私は知らない。彼女が伊藤野枝であったとしても、まったく不思議ではない。そういうことは充分にありうることです。彼女が仕事帰りに何を想うかということを、私は知ることができないが、無関心ではいられない。そこには、この社会を根底から揺るがすポテンシャルが内蔵されているからです。

 こういうことを書くと、極端にロマン主義的な主張だと受け止められるかもしれませんが、そうではありません。
 歴史を参照してみてください。日本の近代思想を飛躍的に前進させたのは、いまから百年前の「大正デモクラシー」です。「大正デモクラシー」の出発点となったのは、1918年の米騒動です。米騒動の起点となったのは、富山の漁村の「女一揆」です。
富山の「女一揆」が日本中の人々に教えたのは、米はあるということ、米は商社によって買い占められているということでした。この啓蒙から「大正デモクラシー」が始まります。彼女たちは下層階級にある無学な主婦でしたが、当時のどんな知識人よりも簡潔に雄弁に、資本主義社会の仕組みを人々に教えたのです。これは知識人はあまり認めたがらない事実ですが、日本の近代思想・民主化運動は、下層の女たちの直接行動によって開始され、爆発的に普及したのです。日本は啓蒙主義思想の希薄な後発国ですが、それでもかろうじて人権概念が普及するにいたったのは、米騒動のおかげです。女がめちゃくちゃに暴れたから、われわれは人権概念を知るにいたったのです。
 伊藤野枝はそんな時代に生きためちゃくちゃな女の一人です。伊藤野枝は一人ですが、一人ではない。無数の「伊藤野枝」がいたし、現在もいるのです。