2017年8月12日土曜日

新刊『経済的徴兵制をぶっ潰せ!』、いただきました


献本をいただきました。ありがとうございます。


 

岩波ブックレット No.971
『経済的徴兵制をぶっ潰せ! 戦争と学生』
著=大野英士、雨宮処凛、入江公康、栗原康、白井聡、高橋若木、布施祐仁、マニュエルヤン
発行=岩波書店


 このブックレット、ブックレットにしては高度な内容を含んでいて、充分な読みごたえがあります。
 発言者はみなそれぞれに経験を積んできた中堅です。交わされている議論は若すぎず、古すぎず、この10年間に取り組まれてきた具体的な実践の成果を出しています。
教育政策が、労務政策と戦争政策に包摂されてしまう時代を、よく描写しています。
 本書は現代の教育問題を考えるための基本文献になると思います。






 さて、お礼のあいさつはここまでにして、本題。

 教育政策と労務政策と戦争政策とを結びつけ、明解に表現しています。そうであるのにどこか、議論を寸止めにしているという感が、ぬぐえない。喉元まで出てきている言葉を呑み込んで、なにかに忖度している感が、あります。

 「戦争と学生」、「経済的徴兵制」、いいんですよ。いいんだけれども、しかしもう一言、言わなければならないことがあったでしょう。

 「放射能と学生」、でしょう。
 これを言わないと。

 登壇者の白井聡くんは、持ち前のコピーセンスを発揮して、「馬鹿はすぐ死ぬ」と言っています。トルストイを引用して。そのとおりです。「馬鹿」は安い愛国心にとりつかれて、真っ先に死んでしまうんです。そうやって「馬鹿な人」が無残に死んでいくのをどうやって止められるのか、考えようと、白井くんは言うわけです。まったくそのとおりです。
 で、そうした構造を、いま如実に体現しているのが、学生の被曝者です。
 放射線被曝に対する感受性は、若ければ若いほど強い。若者は放射線の被害を強く受けてしまう。だから、学生や若者たちはとくに放射線から防護されなくてはならない。これは2011年以降に常識となったものです。
 こうした認識が一般的に共有されていながら、学生を福島に連れて行った教員がたくさんいたのです。米軍や自衛隊でも躊躇するような汚染地域に、マスクもゴーグルもなしに飛び込んでいった(飛び込まされた)学生がいたわけです。高い学費を払って、将来の展望もなく、ただ「社会活動の実績」をつくるために、「復興」ボランティアに動員された学生たちがいた。頭のいい学生は、行きません。親がしっかりしている家庭なら、行かせません。頭が弱くて、親がしっかりしていない、社会的に不利な位置におかれた学生が、福島のボランティア活動に動員されていったのです。

 彼らは、現代の「入市被曝者」です。これはのちのち大問題になります。「経済的徴兵制」の残酷さは、すでに福島「復興」政策にあらわれています。
このことを言いましょう。
提案です。学生を搾取するボランティア活動を、告発し、弾劾していきましょう。



2017年8月11日金曜日

ペペさん、動いて


昨晩、大阪の京橋に行って、酒井さんと飲みました。

矢部「ペペ長谷川を大阪に移転させるために、僕は50万円用意しますよ。酒井さんも50万出してください。」
酒井「まじかよ。うーん。10万ぐらいなら出せるけどねえ」
矢部「10万て。ペペさんに10万ですか。」
酒井「うーん。わかった。20万。」
矢部「20万て。まあいいや、酒井さんは20万で、あと何人か声かけて100万用意しましょう。」
酒井「うーん。どうかなあ」

というわけで、現段階で70万円あります。
ペペ長谷川さん、引越しの検討を始めてください。


2017年8月8日火曜日

立ったままで歌を歌おう

 東京で闘病していた松平君が、今朝、亡くなったそうです。
 私は東京には行きませんが、名古屋から冥福を祈ります。

 若くしてガンを発症し、闘病のなかで放射能汚染問題を告発した人間がいたこと、
2017年の8月に彼が逝ったことを、忘れないでいよう。

 彼と、彼の友人のために、歌をたむけます。 




立ったままで歌を歌おう
犯されたこの大地が
自由の中に生まれ変わる
その日がやがて来るまでは
このまま歩き続け
闘いの火を燃やそう
         ヴィクトル・ハラ





2017年8月4日金曜日

3・11 言説の物神性



 高橋哲哉という学者が『犠牲のシステム』と言ってみたり、小倉利丸という学者が「福島の悲劇」と言ってみたり、こうした現象について、深夜のデニーズで討議しました。
 「犠牲」や「悲劇」といった言葉が選択されるのは、なぜなのか。どのような力学がそれをさせているのか。

 ざっくばらんに言えば、我々の感覚からはほど遠い、まるで宗教者のようなやり方です。まず唯物論的でない。弁証法的でもない。思考を明晰にするのではなく、かえって蒙昧のなかにおいてしまう、言葉。バズワードですね。学者の仕事としては、ちょっとありえないやり方ですよ。ねえ。創価学会じゃないんだから。

 高橋哲哉はデリダ読みですから、つまり形而上学批判という看板の形而上学なので、これはまあ、ありそうな話です。しかし小倉利丸は経済学者ですから、彼の口から「悲劇」という表現が出てくるのは、不思議な話ではあるのです。学術的にどのような文脈があって「悲劇」という表現を容認したのか、小一時間問い詰めてもよい話なのです。

 まあこの件は些事と言えば些事なので、夏の集会のあとに、やります。
物を書く人間が、言説という商品の物神性にどれだけ依存しているのかについて。

ちゃんとやらないとですね。

名古屋共産研、夏の集会



 今月19日、名古屋で集会をやります。名古屋共産研が主催する2回目の集会です。
 今回は、ゲストにゴフマン研究会の蔵田計成氏を招き、討議をします。議論の内容を深めるために、セミクローズで行います。この議論に参加したい方は、集会案内を送りますので、ご連絡ください。


名古屋共産研 8・19集会
『 放射能安全神話を解体するために 』

<プログラム>

13時~
報告1
 蔵田計成氏(ゴフマン研究会)
  『 ALARAのイデオロギーとその歴史 』

報告2
 矢部史郎(名古屋共産研)
  『 放射線防護のシャドウワーク~「経済合理性」は何に寄生しているか 』

  (休憩)

1430分~
 自由討論

17時 閉会

1730分~
 参加者交流会




2017年7月28日金曜日

闘争の時間を意識すること



 まずはじめに、中国の思想家孫子の、有名な一節を参照することから始めよう。

孫子曰く、
「百戦百勝は善の善なるものにあらず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。」(謀攻篇)

 中国史に親しんだことのある人なら、一度は耳にしたことのある一節だろう。
 敵と会戦をして勝利することが最善なのではない。そうした勝利は、自軍の将兵にとっては手柄をたてるチャンスであるかもしれない。だが、大局的観点で戦争を考えるなら、会戦とはあくまで次善の策にすぎないものである。目指すべき最善の勝利とは、敵軍にも自軍にも会戦の機会を与えずに、目的を成就することである。

 現代人は、戦略という概念をもっていて、戦術的勝利と戦略的勝利とを分けて考えることができる。だから現代の我々は、この一節をあたりまえのこととして、つい聞き流してしまう。だが、もうすこしここにとどまって、この一節が何を言っているのか、掘り下げて考えてみよう。

 戦争を考えるなかで、孫子は重大な発見をしている。その発見とは、ある部隊、ある軍団、ある旅団が、戦うことなく敗北することがある、という事実である。敵と戦って敗北する、というのなら、まだ素人にも想像できる素朴な話である。だが現実の戦争はもっと複雑だ。現実の戦闘では、戦わないで敗北する、戦う機会すらつくれずに敗北する、ということがあるのだ。
 孫子の兵法が卓越しているのは、軍の姿を静的に捉えることをやめて、軍の行動可能性に着目したこと、軍事行動を動的編成として把握したことである。言い換えれば、軍をもっぱら空間的に把握することをやめて、時間の観点を導入したことである。
 軍事力とは、兵員の数や武装の質といった、目に見える威容のことではない。軍事力とは、戦況によって刻一刻と変わる、軍の行動可能性、潜在的な可能性の総体である。軍事の核心は、今日の戦闘でどれだけ戦果をあげたか、ではない。今日の戦闘を終えたあとに、明日、明後日、翌週、どのような行動をとることが可能になっているか、である。今日の戦闘によって、明日以降の行動の選択肢が増えているかどうか、その潜在的な可能性の推移が、軍事の核心である。
 こうした観点にたって戦争を言い換えるなら、戦争とは、自軍の潜在的行動可能性を増大させ、敵軍の潜在的行動可能性を縮小させることである。そして、軍の行動可能性が最小化した究極の状態が、「戦う機会すら与えられない」という状態である。
 孫子は、「戦う機会すら与えられない」という状態を、偶発的なものとは考えていない。それは、人為的に、戦略的に、生み出すことができるものである。だから彼は、むやみに会戦をするのではなく、まずは敵が身動きできない状態をつくりだせ(そうすれば自軍の消耗を回避できる)と言うのだ。

 ここで孫子が要求しているものについて、もう少し考えてみよう。
 孫子は、戦争を静的にではなく動的に、空間的にではなく時間的に、把握しようとした。戦争の思考は、兵員数や占領地域といった、空間的な把握によって足りるものではない。戦争を考えるということは、戦争の時間を考えるということだ。
孫子にとって、戦争の空間的要素は、時間に置き換えられるものである。兵員数も、地形も、風向きも、すべて時間に置き換えて把握されるべきである。軍師は、軍の空間的な配置を設計しなければならない。だがそれだけでは足りない。軍師が空間的な配置を通じてさらに考えなければならないのは、軍の時間的な配置を設計することだ。時間の配置とは、敵軍が攻撃にでる機会を封じ、自軍が攻撃する機会を最大化することである。孫子が要求する軍略とは、空間に働きかけることではなく、時間に働きかけることである。
 戦争は、究極的には、偶発性に支配されている。のるかそるか、出たとこ勝負であることを避けられない。だが、軍略はその場しのぎではいけない。自他の軍が、明日、明後日、翌週に、どのような時間を経験することになるのかを、あらかじめ考え、配慮しなければならない。軍事行動の持続を考えること、自軍が潜在的な行動可能性を再生産できるようにしておくこと、さらには、潜在的な行動可能性が拡大再生産されるような機会をつかむことである。
 小さな局地的戦闘が、その戦術的勝敗の結果によらず、戦略的優位性を生み出すということがある。自軍の潜在的な行動可能性が拡大するという展開である。そうした仕方で戦闘の再生産が始まったとき、敵は戦うたびに追い詰められ、打つ手打つ手が自軍の勝利に結びついていく。孫子によればこれは、賽の目を転がすような偶発的な出来事ではない。勝利の条件は、会戦の前にあらかた決まっている。その条件は、戦争の時間(持続)を意識する者だけが把握できるものである。


 さて、ここまでは前振りです。
 紀元前に書かれた孫子の兵法が、現代にも読み継がれているのは、なぜでしょうか。その最大の理由は、孫子が徹頭徹尾世俗的で、現実主義だからです。
 古代から現代にいたるまで、戦争は信仰と結びつけて遂行されてきました。戦争はしばしば神頼みであったり、神の意志と考えられたり、「聖戦」とされたりするものでした。
孫子は、戦争と信仰とを切り離し、徹底的に世俗的な冷めた視点で、戦争を考えました。孫子にとって、死は無価値です。生きることだけが価値です。自己犠牲を神聖化したり、戦死者を「英霊」としたりするような宗教的行為は、孫子がもっとも嫌うものです。そんな馬鹿なことをしている人間は、戦争に勝つことはできないのです。
 戦場におかれた人間が考えなければならないのは、まず第一に生き延びることです。生き延びることができなければ、次の作戦を遂行することができないからです。生きることは、潜在的な行動可能性を保持することです。
 孫子が現代に生きていたら、もっと冷酷にこう言うかもしれません。逆もまた真なり、と。潜在的な行動可能性を保持できていないのなら、それは死んだも同然である。死んでいない、戦闘態勢にある、というだけでは不充分、どのように闘うかという選択肢を複数もっていなければ、存分に生きているとは言えない、と。


 私は2011年の3月に東京を離れ、多くの友人や同志に、東京からの撤退・移住を呼びかけてきました。私の行動を見て、「矢部は戦線を離脱した」と捉えた人々もいたかもしれません。それは誤解です。私はこの6年間、一度も戦線を離脱したことはありません。私は東京で行われる局地的な作戦に合流しなかったというだけです。あの首相官邸前の、反射的で長期的視野を欠いた行動に、合流する気にはなれなかったのです。2017年のいまだから言いますが、大方が予想したとおり、東京のお祭り騒ぎは終息しました。
 我々と日本政府との闘争は、これからが本番です。
この闘争は、闘争の時間を意識し、闘争の再生産を意識したものになります。まずは、汚染地域を避けて、生きのびることです。私たちは生きて、子供たちに伝えていくのです。そして、新たに戦線に加わる若者たちと共に、新しい作戦を次から次へと立案しなくてはなりません。
 いまも東京にとどまっていて、手も足も出ない状態だと感じている人は、ただちに移住をするべきです。すでに大阪では、新しい運動が始まっています。大阪への移住を推奨します。

 

2017年7月14日金曜日

田原さんの新刊

田原牧さんから献本をいただきました。
ありがとうございました。


『人間の居場所』 田原牧著 集英社

旧知の田原さんが精力的に本を書いていて、うれしいです。彼女が体を壊していないということが確認できて、そのこと自体はいいのだが、さて、オビがね。
姜尚中氏の推薦はいいとして、高橋哲哉の推薦はなあ。
まずいなあ。これは、うーん、マイナスだなあ。
彼女の表情がすこしばかり固くなってしまっているように見えるのは、このあたりの、うーん、、、いらないよねこの推薦。

まあ、高橋哲哉問題は今後じっくり話すとして、名古屋に来たらまた飲みましょう。

2017年7月11日火曜日

いわき市の木材ペレット工場が計画断念

<遠野興産>国内最大級ペレット工場建設中止

 木材チップなど製造の遠野興産(福島県いわき市)が、福島県いわき市遠野町上遠野で2月に着工した国内最大級の木質ペレット工場の建設を中止する方針を固めたことが4日、分かった。住宅や学校に近く、24時間稼働に伴う環境悪化を住民が懸念。東京電力福島第1原発事故の影響で、木の乾燥用ボイラーの排ガスに含まれる恐れがある放射性物資を不安視する意見も根強かった。

◎放射性物質に住民懸念

 工場は地元産などの未利用木材を活用。破砕・圧縮して粒状にした木質ペレットを年間最大約3万トン生産し、主に石炭火力発電所の混焼燃料向けに供給する計画だった。
 中野光社長は取材に「住民の皆さんの理解を得られないと判断した。全国から見学者が来るような工場だったが残念だ」と述べた。
 計画を巡っては6月、住民らが「遠野の環境を考える会」を結成。住民集会を開いたり、反対署名を集めるなどしてきた。
 約250人が参加した集会では、「なぜ地区の中心部に造るのか」といった声が続出した。福島県内の樹皮や皮付きチップを1日約40トン燃やして木の乾燥に利用するボイラーに関して、「(放射性物質濃度が)基準値内と言っても理解されるのか」といった指摘も出た。
 会社側は、濃度の低い樹皮などを使い、フィルターによる処理も行うため、排ガス中の放射性物質が検出限界値未満になることや監視態勢を説明。6月下旬には操業中の別の工場見学会も開いたが、賛同は得られなかった。
 考える会会長で地元行政区長の山村全信さん(69)は「苦渋の決断をしてもらった。遠野興産は地元企業。今後はまちづくりで協力したい」と話した。
 計画は事業費約20億円。国の津波・原子力災害被災地域雇用創出企業立地補助金で半額を賄う予定だった。同社は今後、木質ペレット製造の新体制や工場予定地の活用法を検討する。
 ペレットの需要はバイオマス発電の拡大を背景に増大しているが、安価な輸入品の利用が多い。国産の競争力向上には生産規模の拡大が必要といわれる。
 (河北新報 201775日)

 このニュース、朗報なのだが、気になるのは中止決定の速さである。
 6月に住民の反対集会があり、翌月7月には計画中止を発表している。速い。
 もともと成立する見込みのない計画だったということだろうか。
 詳細はわからないが、「復興」政策の無計画ぶりをあらわすエピソードだ。
 


2017年6月30日金曜日

科学論争ノート1

科学論争ノート

 2011年の放射能汚染を境に、原発の安全神話は強化された。
 2011年以前、原子力発電の安全論を主張するのは、政府、推進議員、電力会社などに限られていた。
 2011年以後、「原発の安全神話」は崩れたかにみえたが、今度は「放射能安全神話」があらわれた。2011年以後、放射能の安全論は、政府や電力会社だけでなく社会全体を巻き込む厚みをもったものになっている。

 日本政府には放射線被曝をめぐる科学論争に加わる資格がない。放射線被曝による人体影響が証明されるなら、政府はそれに応じた措置を実行しなければならない。それは最大4千万人の人口を汚染地域から退避させるという事業を想定しなければならないものである。現在の日本政府には、これだけの規模の退避措置を実行するだけの政策的・政治的条件がない。日本政府には、放射線の人体影響について科学的に導き出されうる結論を受け止める用意がない。この科学的に導き出されうる結論にむけた準備、つまり、公衆の大規模退避措置を準備できない政府は、汚染をめぐる科学論争に加わる資格はない。

 放射能汚染をめぐる論争は、放射線防護措置をネグレクトするための論争になっている。国家は国民の生命を保護するためでなく、その保護責任を回避するために、偽の「科学」論争に臨んでいる。放射線の人体影響をめぐる「しきい値仮説」のような珍説の導入は、政府が公衆の放射線防護義務を放棄しようとする意志をあらわしている。たった数名の御用学者と検討会によって、日本政府の責任が免罪され、夜警国家化(最小限の政府)が実現されている。

 放射線防護措置のネグレクトは、「科学」論争という見せかけによって、政策的な論争を回避している。政府は「公衆の防護措置をしない」とはっきりと明言するのではなく、論争の体裁をとることで結論を宙づりにし、あるいは先延ばしにするのである。この「科学」論争は、茶番である。

 放射線をめぐる科学論争に真正な態度で関与しうるのは、どんな破局的な結論にたいしても対策を準備している個人である。彼女らは国による措置を待たず、自力救済によって防護策をとった。彼女らは日本政府が破産する事態を想定しているし、場合によってはこの国を離れる覚悟もしている。この、2011年以後に広範にあらわれた一般的な態度を、“科学的無政府主義”と呼ぶことにする。

 地方公共団体は、政府による偽の「科学」論争と、市民による“科学的無政府主義”との狭間に立たされている。地方自治は、放射線防護対策の重要な焦点になった。直接的な土壌汚染を免れた地域では、自治体の独自の判断で、給食材料の産地規制を実現しているケースもある。

 社会民主主義諸勢力は、国民国家を前提にして運動を想定するという限界を抱えているために、勃興する“科学的無政府主義”または“無政府主義的科学主義”を前に腕をこまねいている。社民主義諸勢力は、日本政府の夜警国家化と、市民の“科学的無政府主義”との狭間で、国民国家存続の幻想を護持しようとする。この幻想の護持は、政府がしかける偽の「科学」論争を支えることとなる。つまり、社民主義諸勢力は結果として、夜警国家化の成立に加担することになる。

 市民による“科学的無政府主義”は放射線被曝の予防に努める。これにたいして日本政府は、クリアランス概念を最大限に拡張し、防護措置の放棄をはかる。クリアランスとは、統治の技法に科学的な粉飾をあたえたものである。

 国家の統治は、現実の全体から例外的なものを分別し、一般的なものと例外的なものとの線引きを自明なものとして確立することである。特異なもの、特異な状態を、例外として扱う。例外とは、考慮する必要のないもの、保護するに値しないもの、法の外に放逐されるものである。「科学」論争に登場するクリアランス論は、標準的な人体を設定しその空想を自明なものと信じさせることで、現実にある人体をことごとく例外にしてしまう。

10
 “科学的無政府主義”は、一般的なものと例外的なものの分別を認めない。この立場はある明白な事実、すべての人体は特異であるという事実に由来する。「一般的な人体」「標準的な人体」などというものは、存在しない。すべての存在は特異であり、あるひとつの特異なものが、すべてである。一人の子供が鼻血を流したときに、その異変を例外としてみなすことに何の意味があるだろうか。そのひとつの徴候を見過ごしてしまう者は、たとえ200人の子供がガンを発症しても闘うことができないだろう。

11
 社会民主主義者がクリアランス論=被曝受忍論に傾いていくのは、彼らが科学的思考に不慣れだからではない。彼らの社会的・政治的構想力が、国家を超えることがないからである。社会民主主義者は、革命的状況に際しては、その抑止、反動、反革命としてあらわれる。だから社民主義者は、日本政府とまったく同じ手つきで「科学者」を呼びクリアランス論を語らせるのである。「風評被害」の威力を恐れているのは政府だけではない。社民主義者もまた「風評被害」がはらむ革命的性格に不安を抱いているのである。

12
 ↑これを具体的に明記するなら、安斎育郎、小出裕章、河田昌東、などである。彼らのような受忍派の「科学者」は、反原発運動から排除するべきである。



2017年6月14日水曜日

『移住者たちの新たな問い、増殖する新たな空間』


 小冊子を発行しました。

『移住者たちの新たな問い、増殖する新たな空間』
   著者=矢部史郎+山の手緑 
   発行=遠心力出版
   48頁 頒価300円

 昨日、印刷と丁合を終了しました。
今日、カライモブックスさん(京都)と、模索舎さん(東京)に発送し、ウニタ書店さん(名古屋)に納品してきました。

 表紙はカラーではありません。リソーの輪転機で印刷したので、白黒です。
 よろしくお願いします。

2017年6月6日火曜日

カライモブックスさんで委託販売開始です


今月、小冊子『2011年以後、どうなのか』(遠心力出版)を発行しましたが、京都の書店で委託販売をしてもらえることになりました。

カライモブックスさんです。

取り扱い書店が3店になりましたので、あらためてお知らせします。


遠心力出版 取り扱い書店

ウニタ書店
   名古屋市千種区内山3丁目33−8 新今池ビル 2F

カライモブックス
   京都市上京区 大宮通芦山寺上ル西入ル社横町301

模索舎
   東京都新宿区 新宿2丁目4−9


今月中旬頃に、もう一冊つくります。
よろしくお願いいたします。

2017年6月3日土曜日

退行する報道番組


NHKの報道番組「クローズアップ現代」で、福島県産米の「風評被害」をとりあげていた。
この番組が主張する説を要約すると。


小売市場では現在も福島県産米が売られていない。
 ↓
最新の市場調査では、2割の消費者が福島県産米を買わないと言っている。
 ↓
8割の消費者は、福島県産米を気にしていない。≒「風評被害」は終息した。
 ↓
それに対して、流通業者の多くが「福島県産米は売れない」としている。流通業者が「福島県産米」を避けている。
 ↓
消費者の間では「風評被害」が終息しているのに、流通業者の意識は2011年のまま。
 ↓
(結論)もう6年も経っているのだから、福島県産米を流通させるべきだ。



 「クローズアップ現代」の説によると、流通業者の意識が低い、ということになる。

 この珍説、どこがおかしいかと言うと、「福島県産米を買わない」としている2割の消費者を過小評価していることである。
 2割というのは、大きい。2割もの消費者が「買わない」と言っているものを、流通業者が無視できるわけがない。10円や20円の価格差を競い合っている食品小売業界で、2割の消費者を逃がしてしまったら、すぐにつぶれてしまうだろう。
 たとえば、現在の小売商品では食物アレルギーの表記があたりまえになっている。食物アレルギーにかかわる消費者なんて全体の2割程度だろうといって表記を廃止してしまったら、その業者は競争に負けてしまう。だからどの業者も食物アレルギーの表記をやめることはできない。2割というのは大きいのである。


 もしかしたら「クローズアップ現代」の記者は、2割の消費者を「少ない」と思ったのかもしれない。福島県産でも気にしないという回答が8割もあったから、「風評被害は終息した」と錯覚したのかもしれない。しかし、現実社会は学級会のような多数決で決まるものではない。2割もの人々が「買わない」と回答したということは、「風評被害」がくつがえすことのできない趨勢になったということなのである。

 汚染から6年たって、いまだに払拭できないでいる「風評被害」とは、もはや風評ではない。現実を受け入れて、農家への賠償と廃業措置を進めるべきだ。なぜ福島の農家が廃業できないでいるかを調査するのが、本来の報道番組だろう。




参考 報道番組の退行した例 ↓





2017年5月31日水曜日

新しい冊子をつくりました。山口素明×矢部史郎の対談



 今年のはじめ、名古屋共産研の集会報告集を発行しましたが、わりと評判が良かったので、また新しい冊子を作りました。

 タイトルは、『討議 2011年以後、どうなのか』。
 内容は、フリーター全般労働組合の山口素明氏と矢部史郎の対談です。2011年の原発事故からじつに6年ぶりの討議です。東京と名古屋にわかれた二人が、改めてこの6年をふりかえってみようということで、大阪で対談。原発事故後の言論状況、復興ボランティア、「放射脳」、「福島差別」などをめぐって、強い内容の議論をしました。
 また、参考資料として、矢部+山の手の論文『シジフォスたちの陶酔』(2014年、初出『インパクション』誌)を、全文再録しました。
 36頁、300円。
 取り扱い書店は、ウニタ書店(名古屋)と、模索舎(東京)です。


 今回の冊子は名古屋共産研ではなく、矢部史郎+山の手緑で編集・発行しました。発行者は“遠心力出版”となります。この冊子にかんする苦情・異論等は、名古屋共産研ではなく遠心力出版へどうぞ。



2017年5月22日月曜日

「復興」破たん後の社会を構想すること



大阪の『人民新聞』紙に、原稿を書きました。今週の号に掲載予定です。
 依頼されたテーマは、復興庁大臣の失言・辞任問題。
 ここで普通に大臣発言を弾劾してもよかったのですが、自分としては物足りなさがあったので、すこし前のめりに問題提起をしてみました。詳しくは『人民新聞』紙を買って読んでみてください。
 以下は、その論旨の要約。と、すこし加筆してみます。


 福島「復興」政策は遠からず破たんする。
ところで真の問題は、私たちは「復興」破たん後の社会を構想できるだろうか、ということである。
 福島の「復興」がうまくいかないことは、誰の目にもあきらかである。そのことにいまさら驚いたふりをするのもしらじらしい。いま私たちが提示しなければならないのは、「復興」破たん後の社会をどうするか、というビジョンである。

 政府と金融資本は、公害隠しの「復興」政策に没入する以外に道はない。彼らは嘘に嘘を重ねながら死体を積み上げていくことになる。私たちはそんな無謀な政策に付き合う義理はない。プランAの「復興」が暗礁に乗り上げるのなら、それにかわるプランBを用意しなければならない。
 ところで、私たちはプランBを構想することができるだろうか。「復興」政策の拒否を貫いた先に、どのような社会を形成するのか。官民をあげた国民動員社会に背を向けて、どのように関係をとりなおしていくか。そこでは、どのような人間が、どのような方法で、どのような社会を、再建していくのか。
 「復興」破たん後、と書いたが、それは、政府や銀行が破たんを認める日を待つという意味ではない。彼らが破たんを認めるのは最後の最後であって、私たちは政府がどうこうする以前に、予示的に、「復興」破たん後の社会を形成していけばよい。政府のペースに合わせる必要はない。時間を先取りし、圧縮することだ。

 と、ここまで偉そうに書いたが、私に「復興」破たん後の明確なビジョンがあるかと言うと、まだ手探りの状態である。まだ考え始めたばかりだ。またこの構想は、私ひとりの脳髄でつくりあげるものでもない。私の娘や、娘の世代の人々と、討議していくべきものだ。

 とはいえ、それほど長い時間はかからない。焦らずとも数年で形がみえてくると思う。
 いまはただ、「復興破たん後の社会」という言葉を口にしただけで、さまざまな着想が湧いてくる、やる気が出るということで、よしとしよう。






2017年5月20日土曜日

近況報告

2017年に入ってから、なんだか忙しい。
予想していた以上の忙しさ。

いま抱えている作業は三つあって、
1、名古屋共産研の夏の集会にむけた研究報告。
2、矢部史郎×山口素明の対談、「会議ができなくなっちゃった」。
3、矢部史郎×山の手緑の対談。タイトル未定。

2と3は、名古屋共産研の作業ではないが、『16年テーゼ』で提起された社会民主主義批判をフォローするものだ。

2の山口×矢部対談は、2011年以後の言論情況の困難さを討議することから始まり、さらに2011年以前に遡って、アイデンティティ・ポリティクスの流行を批判的に検討した内容。これは6月上旬に小冊子で発行する予定。

3の矢部×山の手対談は、関西で始まった移住者運動の趨勢を分析しつつ、論点を整理する。〈代理/表象〉、〈漏出線〉、〈分子革命〉といったガタリの概念を使いながら、“移住者”といわゆる“社会運動”とのズレを議論する。論点は具体的だが、徐々に抽象度をあげていくので、読みごたえがある。これも6月下旬には発行できるようにしたい。




2017年5月1日月曜日

風向きに注意

 福島第一原発の付近で、放射能に汚染された山林が燃えている。
 放射性セシウム、放射性ストロンチウム、ウラン、プルトニウム等の放射性核種が、上空に舞いあがる。
 風向きと降雨に注意。



帰還困難区域の山林で火事 消火活動続く 福島 浪江町 

東京電力福島第一原子力発電所の事故による帰還困難区域となっている福島県浪江町の山林から煙が上がっていると、29日の夕方、消防に通報があり、丸1日がたった今も燃え続けています。けが人や建物の被害はありませんが、福島県は自衛隊に災害派遣を要請し、1日、改めてヘリコプターでの消火活動を行うことにしています。29日午後4時半ごろ、福島県浪江町井出の山林から、「煙が上がっている」と消防に通報があり、30日朝早くから福島県や宮城県などのヘリコプターが出て消火にあたりました。
火は、30日午前7時半すぎに、いったんほぼ消し止められたものの、強風で再び勢いを増しさらに燃え広がったため、福島県は30日正午、自衛隊に災害派遣を要請し、ともにヘリコプターを出して消火活動に消火活動にあたりました。
警察によりますと、出火から丸1日がたった30日午後5時現在、少なくとも10ヘクタールの山林が焼けたということです。けが人や建物の被害はないということです。
30日の消火活動は日没とともに打ち切られ、福島県などは1日午前5時すぎから再びヘリコプターで消火活動を進める予定です。
現場は東京電力福島第一原発の事故の影響で放射線量が比較的高い帰還困難区域で、警察によりますと、出火した時間帯には浪江町のほかの場所で雷によると見られる火事が起きていたことなどから、警察は落雷が原因と見て詳しい状況を調べています。 4301856分 NHK 

2017年4月27日木曜日

ミサイルデマをやめさせよう



 「もしもミサイルが撃ち込まれたら、頑丈な建物に入り、窓から離れましょう。」
 こんなばかげた指導が公立学校で行われているらしい。
 どうやらうちの地域だけでなく、全国の小中学校で、このような指導が行われているようだ。ここで想定されているミサイルとは、朝鮮のミサイルなのだという。

 朝鮮がミサイルを撃つわけがないだろう。ありえない。完全にあさってを向いた妄想である。
 私はそれほど熱心に新聞を読んでいないし、国際面もパラパラ眺める程度なのだが、そんな私でも、朝鮮が核兵器開発に成功したらしいということは知っている。だから普通に考えて、朝鮮半島が戦争状態になることはない。冷静に客観的に考えてみればわかることだ。
 アメリカが核保有国に侵攻することができるだろうか。できない。まず中国・ロシアという二つの国連常任理事国がゆるさない。では、アメリカが国連を無視して、単独で、または有志国連合で、朝鮮に侵攻することができるだろうか。できない。中国・ロシアを敵にまわしかねないやりかたで、無謀な戦争をするわけがない。
そもそもいま朝鮮に侵攻したところで、アメリカにとって得るものはない。「国際関係のすべてをディール(取引)として考える」と公言したトランプが、得るもののない戦争をするわけがない。
 アメリカが戦争を仕掛けないなら、朝鮮は戦争をしない。戦争をしたところでなんのメリットもないからだ。朝鮮は、核兵器開発に成功したことで外交的に優位な状態を確保したのだから、いまあえて戦争をする理由がない。

 そういうわけで、朝鮮半島有事というものは、ありえない。いまありうるのは外交交渉だけなのだ。
 このことは、米軍の軍事演習や朝鮮軍の軍事演習の映像を見ればわかる。どちらも大規模な軍事演習を行っているが、軍人たちの表情は穏やかで、まったく緊迫した様子がない。朝鮮軍の指導部にいたっては、ニコニコと笑っている始末である。米軍・朝鮮軍双方とも、戦争になることはないということがわかっていて、安心して軍のデモンストレーションに興じているのである。

 朝鮮が日本に向けてミサイルを撃ちこんでくるなどという話は、万に一つもない、悪質なデマである。こんなデマを吹聴するのは、兵器産業に税金を引っ張りたい政商ぐらいなものだ。ミサイル攻撃の危機を煽って、ミサイル防衛システムを売りさばきたいのだろう。原子力発電事業で行き詰った三菱あたりが、今度は兵器産業の分野で税金にたかろうとしているわけだ。どうせそんなところだ。
そうしてまた彼らは嘘をつく。原発を売りつけるために「石油資源が枯渇する」と煽ったように。今度は、ありえないミサイル攻撃を煽って、ミサイル防衛システムなどという役に立たない高額商品を売りつけようというのだから、やり方としてはほとんど霊感商法である。ダニのような連中である。経済産業省は日本経済に寄生するダニである。こういう連中のみえすいた嘘を、ゆるしてはいけない。



 もうひとつ。

 こういう悪質なデマは、社会を侵す。社会関係を支えている人間同士の信頼が、棄損される。朝鮮がミサイルを撃ってくるというデマは、そこに含意されているのは、朝鮮国は何をするかわからない怪物のような国家であるという偏見である。
 事実はそうではない。朝鮮国は怪物の国ではない。何をするかわからない、ということはない。何をするかわからないと言うのなら、それはどんな国家にも言えることであって、朝鮮国の金正恩体制がとりたててクレイジーであるというわけではない。金正恩がどういう人間であるかはよく知らないが、少なくともトランプよりは賢明に見えるし、プーチンよりは繊細さをもった人間に見える。金正恩は誠実な人間ではないかもしれないが、少なくとも安倍晋三よりは責任感をもった人間に見える。
 朝鮮国を怪物のようにみなすことは、やめるべきである。朝鮮国は隣国であり、また、朝鮮人はずっと日本社会に暮らしてきた隣人である。仲よくしようなんてことは言わないが、偏見によって隣人を敵視することは、やめるべきだ。

 いまから約1世紀前、1923年の関東大震災後、陸軍は悪質なデマを流した。「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」というデマである。このデマをうのみにした人間たちは、忌まわしい虐殺事件を起こしていった。殺されたのは朝鮮人だけではない。朝鮮人も日本人も「人間狩り」によって拘束され、虐殺されたのである。この虐殺事件は、東京復興事業の起点となり、「大正デモクラシー」から「昭和ファシズム」への転換点になった。この忌まわしい虐殺事件を想起しながら、現在のミサイルデマを弾劾し、やめさせよう。

くだらない与太話だといって看過してはいけない。
嘘は社会を蝕んでいく。
一人一人に語りかけ、デマをうちけしていこう。




2017年4月15日土曜日

歴史のくずかごは美しくない

 「歴史のくずかご」という表現がある。
「○○を歴史のくずかごへ叩き込め」なんて言い方をする。

 若いころは壮大でかっこいい表現だなあと感じていたが、実際にくずかごの実物を見てみると、まったく見栄えのしないものだ。
 まあ、そうだよね。歴史のくずかごの中身は、くずかごに投げ入れられるべくして投げ入れられたものなのだから、壮大でも美的でもない。
 叩き込む、なんて美しいやりかたではない。目をそむけ、鼻をつまみながら、しかたなく立ち会うものなのだ。

 ところでここで唐突に予言をしたい。
 2017年内、あるいは年度内に、阪大の菊池誠は発症するね。菊池誠というのは、「炉心溶融」と「メルトダウン」は違うという主張をしている菊池誠である。
 菊池誠のメンタルヘルスは、もう、ぎりぎりである。あとひと押しツイッターで小突かれたら、発症する。悪くすると、死ぬね。そして彼が死んでしまったら、誰も彼のことを振り返らない。彼が何をしたか、何を言ったか、彼が存在したことすら、忘れてしまう。


 まったく同情しない。

 当然だと思う。

2017年4月5日水曜日

「復興」政策の正体


復興庁が、みずから馬脚をあらわした。
避難指示地域以外からの「自主避難者」への対応と責任を質問されて、避難者それぞれの判断、「自己責任」、と明言した。
国民一丸となって復興にのぞむ、なんてきれいごとは、もう言わない。「復興」政策が、どれほど多くの人々を切り捨て排除するものであるかを、大臣みずから明言した。この発言がテレビの全国放送で流れたのである。
 6年間の暗い時期を経て、ようやく一筋の光明が差してきた。
「復興」政策反対の議論をはじめよう。



2017年3月25日土曜日

財務省、ひどいね

 森友学園の怪しい土地取引をめぐって、国会がにぎやかである。国会の質疑や証人喚問を見ていると、どんなお笑い番組よりも楽しい。前回選挙で議席を増やした共産党が、質問時間を長くとれていて、とてもよいと思う。


 森友学園問題は、かつて繰り返されてきた汚職議員の疑惑とは、少し違っている。この事件は、たんに政治家の汚職という範疇に収まらない、もっと大きな不正の構造に到達するかもしれない可能性をもっている。
 現在の野党による追究は、形式的には、政治家がどのように財務省に働きかけたか、という視点でおこなわれている。ここでは、事件の主犯は政治家であるという想定で、真相究明が求められている。
だが、質疑が進むにつれて、政治家が主犯で官僚が従犯という想定は、しだいに崩れつつある。私たちの脳裏に浮かんでくるのは、この事件の主犯は財務省官僚なのではないか、という疑念である。これから明るみになっていくだろうことは、たんに自民党議員だとか日本維新の首長だとかの汚職ではなくて、財務省の行政官が何を企て実行してきたかということだ。

 脳裏に浮かぶのは、行政官たちが政治家の意思を待たずに独断で動いている姿である。選挙で選ばれた議員たちの内閣は、たんに行政官が与える「飴」と「鞭」で操縦されているだけなのかもしれない。そうした構図が私たちの脳裏に浮かぶのは、2011年以降の権力の様態を見ているからだ。

 2011年「原子力緊急事態宣言」の発令は、一種の戒厳令状態を生み出している。公衆の放射線防護対策の指針は、被曝防護から被曝受忍へと180度転換したのだが、この重大な政策転換は、立法府の議論を待たず行政府だけで強行された。食品と物品のクリアランス基準は、法ではなく省令によって強行された。議員立法である「チェルノブイリ法」は、全会一致で可決されたが、行政府が運用を拒否し、たなざらしにされている。2011年以降、行政府と立法府のバランスは完全に崩れた。行政権力の専制的性格が露出しているのである。

 「原子力緊急事態宣言」以後、秘密保護法案、安保法制、共謀罪といった法案が次々と強行成立されている。そうした流れのなかで、森友学園問題はたんに与党と野党の党派闘争ではなく、行政権力そのものに焦点をあて、告発する、新たな論争を生み出すものになるだろう。自民党のうしろにいる行政官に注視しよう。


2017年3月18日土曜日

「一遍上人伝」いただきました



栗原康くんから献本をいただきました。ありがとう。


 

死してなお踊れ 一遍上人伝
栗原康 著
河出書房新社  



 いつものことですが、内容について言及はしません。
それよりも、海賊史研究の菰田真介くんと一緒に愛媛県を遊び歩いていたそうで、うらやましい。とても良いことだと思います。旅をしながら考えることは、楽しいし、思わぬ成果があります。




 さて、この本については措くとして、今回はすこし耳の痛い話をします。小言です。


 君ももう充分に本を書いて名をあげたから言いますが、そろそろ東京から撤退してはどうでしょうか。きっとその方がよいと思います。

 問題は、関東の放射能汚染ですが、これはいちいち論じるまでもないことです。爆発事故の直後、埼玉県羽生市と群馬県太田市の児童公園を、何日もかけて一緒に計測してまわったのですから、汚染問題についてはあらためて言うまでもないでしょう。
 私が東京から撤退するべきだと言うのは、もうひとつ別の理由があります。
現在の出版界から距離をとることです。出版界と密接になりすぎてはいけない。それは、書くことを控えるためではなくて、5年後にも10年後にもしっかりと書けるように準備を進めるためです。
 編集者というのは短期的な作業をしている人たちですから、5年後や10年後の見通しを持っているわけではありません。今年なにがあたるかを考える人たちです。そういう人たちと付き合いながらシーンに身を置くことは、良いことです。それはそれでよい。しかし書き手として考えておかなければならないのは、それであと何年もつのか、です。
 いまの人文シーンは、はっきり言って老化しています。読者の中心は、老眼鏡をかけたおじいさんとおばあさんです。この人たちが棺桶に入るころ、シーンは変わる。大きく変わる。そのときに、新しい読者にむけて、何を書くことができるのかです。これはこれできちんと準備しておかなければならない。新しい趨勢のなかに身を置いて、新しい空気を吸って、新たな焦点となるものを準備することです。


 もうながなが言わなくても、わかっていると思います。
 アナーキーの思想は、旧いものでありながら、つねに新しい。慎重さばかりでなく、豪胆さが要求される思想です。


2017年3月13日月曜日

2017年3月の覚え書き

最近、加齢のせいなのか、物忘れが多い。人の名前を忘れてしまう。
なので、忘れてしまったときに読み返せるように、メモをしてのこしておこうと思う。


樋口大二 朝日新聞

和久井孝昭 (全日本自治団体労働組合専従)

大内悟史 99年朝日新聞入社

小波秀雄 京都女子大学名誉教授

岩上欣也

阿久沢悦子 朝日新聞大阪

高橋正行 電力中央研究所


2017年3月11日土曜日

6年目の春に



 東京電力事件から6年がたつ。
 6年たってもまだ、気持ちの整理がつかない。あの日から何があってどうしたのかを、明解な仕方で書くことができない。
 これは自分自身の問題でもあるし、自分をとりまく環境の問題でもある。



 私はあの日、殺されかけたのだと思っている。

こう書くと、なにかの比喩的な表現か、そうでなければ狂言じみた話のように受けとられてしまう。私が生命の危険を感じたということを語って、それを文字通りに信じる人間は、ほとんどいない。
信じる人間がいないから、私は話すこと自体に消極的になる。
放射能汚染の脅威についてどれだけ言葉を尽くして説明しても、どうせ理解されることはないのだ、と。


 これは、犯罪被害者が一般的に経験する問題なのかもしれない。犯罪被害者は、周囲の人々の無理解と無関心にさらされ、孤立を経験する。
 警察はさまざまな犯罪を取り扱い、日本社会に多くの犯罪があることを知っているが、個別の事件については消極的になりがちである。警察が被害者の訴えを狂言扱いして門前払いすることは、しばしばある。
 たとえば、ストーカーの被害者が生命の危険を訴えて被害届を出したとして、警察は積極的には動かない。警察が被害届をつきかえしたケースもある。殴られたり刺されたりしてから来い、という対応だ。面倒なものには蓋をしたいということだろう。
警察が犯罪にたいして無知で、想像力がない、ということではない。むしろその反対だ。警察は犯罪を具体的に知っているからこそ、ストーカーの規制がどれほど面倒なものかを想像し、蓋をしてしまうわけだ。
 そうして犯罪被害者は、犯罪を最も熟知している警察によって、孤立させられることになる。問題は無知ではない。無理解、無関心は、無知とイコールではない。


 放射能汚染を逃れた移住者たちは、人々の無理解にさらされる。
 この無理解は、無知に起因しているものではない。
 私が放射能汚染によって殺されかけた、と言うとき、その言葉の意味をまったく理解できない人間は、本当はいないはずだ。日本で生まれ育ったならば、誰もが広島・長崎の原爆被害を知っている。40歳以上の大人なら、チェルノブイリの事件をよく知っている。茨城県のJCOの臨界事故も記憶に新しい。足尾鉱毒事件や水俣病といった公害事件は、学校の授業で教えられる。政府と公害企業が公害隠しに全力をつくすことは、教科書に書かれている歴史的事実である。
 東北関東からの移住者たちへの無理解というものは、人々の無知の問題として片づけられてしまいがちだが、実際にはそうではない。人々は放射線被曝の脅威を知らないから問題に消極的になっているのではない。むしろその反対だ。人々はそれがどれほど面倒な問題であるかを知っているから、蓋をして、見なかったことにしてしまうのだ。

 彼らに欠けているのは知識ではなく、勇気である。
 これから移住者が人々に示していかなければならないのは、問題に立ち向かう勇気だ。












おまけ

Hey we gotta move...
Hey we gotta move...

これいいね。
こんな感じ。

2017年2月27日月曜日

塚本幼稚園のために涙を流すことはないのだが


 大阪の森友学園・塚本幼稚園が話題だ。

 昨年の今頃は、「保育園に落ちたの私だ。日本死ね。」というブログ記事の話題が日本中を席巻していたのだが、今年は保育園ではなく幼稚園の問題である。昨年・今年と連続して、再生産領域をめぐる議論が繰り広げられている。

 で、問題の塚本幼稚園なのだが、ほとんどギャグというか、2ちゃん的には「釣りだろこれ」というシロモノだ。事実は小説よりなんとかだ。
 この幼稚園について反応するポイントはおそらく二つあって、
① 教育内容が極端な国粋主義であること
② 教育手法が児童虐待事案であること
である。

 政治的な論点としては①の教育内容が「うわあ」ポイントなのだが、実際に大多数の人が感じている「うわあ」ポイントは、②である。②が、すごすぎて、①を圧倒している。
 まだおむつのとれていない子供が失禁した際に、その糞便をそのままかばんに突っ込んで持ち帰らせている件、とか、まだ漢字も読めない幼児に意味不明な長文を唱和させている件、とか。あの子供たちの唱和の映像を見たら、まるで腹話術の人形である。子供を人形のように喋らせることが、「教育」として堂々と行われている。これはかなり「うわあ」である。

 現代の子育て世代の一般的な感覚で言えば、この園長と副園長は「毒親」と呼ばれるものだ。「毒親」とは、子供の人格と尊厳を認めず、自分の意のままに操ろうとして、けっきょく子供をつぶしてしまう親である。親子関係を小さなカルト空間に仕立て上げてしまうサイコパスである。育児に関わらせてはいけない「壊れている」親だ。そういう毒性をもった人間が、自分の子供を支配しようとするだけでなく他人の子供を預かって幼稚園の経営をしてしまっているという事実が、「うわあ」である。

 おそらく塚本幼稚園と私たちとでは、育児をめぐる実践感覚が根本的に違っている。子供の人格権を認めるところから出発するのか、それとも、子供の人格権を認めないまま「しつけ」をするか。「しつけ」と言えばそれらしく聞こえるが、本質的にはサルの調教である。塚本幼稚園にとって子供とは、制裁を加えながら調教されるべきサルである。
 これは、教育手法をめぐる理念とか思想とかいう高度な問題ではなくて、もっとそれ以前の、実践感覚としてズレているという問題である。彼らは人間とサルとの違いを、感覚として体得していない。幼稚園とサル軍団は違うのだということを、感覚としてわからない。われわれがサルではなく人間であるということ、その喜びを、感じることがない。彼らにとって生とは、たんなる痛みだ。彼は痛みから逃れることに人生のすべてを費やす。痛みから逃れることだけを考えるから、言動に一貫性がうまれず、すべてがその場しのぎのものになってしまう。
 2ちゃんねるの既婚女性板ではこういう種類の人間を「ポンコツ」と表現する。この園長と副園長はまさにポンコツである。ポンコツだから、新宗教や愛国心や政治権力に救いをもとめたのかもしれない。しかし、どんなすばらしい教えを信仰したところで、ポンコツは治らない。権威や権力で身を飾っても、ポンコツはポンコツだ。生の文明化の圧力をまえにして、無慈悲に淘汰されていくだろう。

 私たちが「うわあ」と感じ、私たちが育てる子供たちが「うわあ」と感じることによって、彼らは淘汰されていく。
 おそらく10年後には存在しない人々だ。
 再生産は、どんな暴力にもまして無慈悲だと思う。
 直視することがためらわれる、残酷な現実である。





追記
 放射能汚染後の日本では、再生産領域の問題が焦点化することが増えたように思う。人口流出による地方消滅問題、保育園待機児童問題、今回のイカれた幼稚園問題などがそうだし、安保法制に反対する運動もその主力となったのは若い母親たちだった。こうした傾向の直接の引き金となったのは、言うまでもなく放射能公害事件である。2011年以降、若い主婦たちが政治化する趨勢が顕著にあらわれている。彼女たちはたんに放射能汚染に抵抗するだけでなく、社会のさまざまな制度を再審にかける動きに出ている。私はこうした一連の出来事を総称して、「風評被害」革命、と呼んでみたい。
 「風評被害」革命は、政治革命ではなく、もっと広大な領域にひろがる文化の革命である。「風評被害」革命は、無血であるが、無慈悲である。「風評被害」革命は、無言の不服従によって、社会の血流を止め、壊死させる。「風評被害」は、力学的な働きによって制圧するのではなく、体温を奪うことで衰弱させる。この革命は、対象を破壊するのではなく、虚ろにする。
 「風評被害」革命は、どのようなしかたで作用していくのか。着目するべきは、どんな政策がとられているかということよりも、その政策が活力を持って実行されているか否かである。どんな法がありどんな機構があるか、ではなく、それらがいきいきとした実効性をもってあるか、ということである。法を解釈し運用する人間が、熱をもって動いているかどうか。究極的には、人間が、どれだけいきいきと働いているか、あるいは、虚ろな状態におかれているか、である。
 人間がいきいきとしているかしていないかという視点は、漠然としているが、決定的に重要である。これは再生産労働の効果が如実に表れる領域である。
 「風評被害」革命はまず、「復興」政策に加担する国民運動を包囲し、その血流を止め、この国策に関わるボランティア活動をどこか後ろ暗い虚ろなものへと変えていった。国が進める観光都市政策は、西日本と東日本とで明暗を分ける結果になっている。学校運営は、給食問題を引き金にして、保護者の非協力的な態度にさらされている。「風評被害」革命の進行によって、東日本の汚染地域では、なにもかもがうまくいかない、虚ろな状態に陥ることになる。私たちはこれから、人間がいきいきとしていないという状態が、どれほど過酷なものであるかを、見ることになる。