2017年5月22日月曜日

「復興」破たん後の社会を構想すること



大阪の『人民新聞』紙に、原稿を書きました。今週の号に掲載予定です。
 依頼されたテーマは、復興庁大臣の失言・辞任問題。
 ここで普通に大臣発言を弾劾してもよかったのですが、自分としては物足りなさがあったので、すこし前のめりに問題提起をしてみました。詳しくは『人民新聞』紙を買って読んでみてください。
 以下は、その論旨の要約。と、すこし加筆してみます。


 福島「復興」政策は遠からず破たんする。
ところで真の問題は、私たちは「復興」破たん後の社会を構想できるだろうか、ということである。
 福島の「復興」がうまくいかないことは、誰の目にもあきらかである。そのことにいまさら驚いたふりをするのもしらじらしい。いま私たちが提示しなければならないのは、「復興」破たん後の社会をどうするか、というビジョンである。

 政府と金融資本は、公害隠しの「復興」政策に没入する以外に道はない。彼らは嘘に嘘を重ねながら死体を積み上げていくことになる。私たちはそんな無謀な政策に付き合う義理はない。プランAの「復興」が暗礁に乗り上げるのなら、それにかわるプランBを用意しなければならない。
 ところで、私たちはプランBを構想することができるだろうか。「復興」政策の拒否を貫いた先に、どのような社会を形成するのか。官民をあげた国民動員社会に背を向けて、どのように関係をとりなおしていくか。そこでは、どのような人間が、どのような方法で、どのような社会を、再建していくのか。
 「復興」破たん後、と書いたが、それは、政府や銀行が破たんを認める日を待つという意味ではない。彼らが破たんを認めるのは最後の最後であって、私たちは政府がどうこうする以前に、予示的に、「復興」破たん後の社会を形成していけばよい。政府のペースに合わせる必要はない。時間を先取りし、圧縮することだ。

 と、ここまで偉そうに書いたが、私に「復興」破たん後の明確なビジョンがあるかと言うと、まだ手探りの状態である。まだ考え始めたばかりだ。またこの構想は、私ひとりの脳髄でつくりあげるものでもない。私の娘や、娘の世代の人々と、討議していくべきものだ。

 とはいえ、それほど長い時間はかからない。焦らずとも数年で形がみえてくると思う。
 いまはただ、「復興破たん後の社会」という言葉を口にしただけで、さまざまな着想が湧いてくる、やる気が出るということで、よしとしよう。






2017年5月20日土曜日

近況報告

2017年に入ってから、なんだか忙しい。
予想していた以上の忙しさ。

いま抱えている作業は三つあって、
1、名古屋共産研の夏の集会にむけた研究報告。
2、矢部史郎×山口素明の対談、「会議ができなくなっちゃった」。
3、矢部史郎×山の手緑の対談。タイトル未定。

2と3は、名古屋共産研の作業ではないが、『16年テーゼ』で提起された社会民主主義批判をフォローするものだ。

2の山口×矢部対談は、2011年以後の言論情況の困難さを討議することから始まり、さらに2011年以前に遡って、アイデンティティ・ポリティクスの流行を批判的に検討した内容。これは6月上旬に小冊子で発行する予定。

3の矢部×山の手対談は、関西で始まった移住者運動の趨勢を分析しつつ、論点を整理する。〈代理/表象〉、〈漏出線〉、〈分子革命〉といったガタリの概念を使いながら、“移住者”といわゆる“社会運動”とのズレを議論する。論点は具体的だが、徐々に抽象度をあげていくので、読みごたえがある。これも6月下旬には発行できるようにしたい。




2017年5月1日月曜日

風向きに注意

 福島第一原発の付近で、放射能に汚染された山林が燃えている。
 放射性セシウム、放射性ストロンチウム、ウラン、プルトニウム等の放射性核種が、上空に舞いあがる。
 風向きと降雨に注意。



帰還困難区域の山林で火事 消火活動続く 福島 浪江町 

東京電力福島第一原子力発電所の事故による帰還困難区域となっている福島県浪江町の山林から煙が上がっていると、29日の夕方、消防に通報があり、丸1日がたった今も燃え続けています。けが人や建物の被害はありませんが、福島県は自衛隊に災害派遣を要請し、1日、改めてヘリコプターでの消火活動を行うことにしています。29日午後4時半ごろ、福島県浪江町井出の山林から、「煙が上がっている」と消防に通報があり、30日朝早くから福島県や宮城県などのヘリコプターが出て消火にあたりました。
火は、30日午前7時半すぎに、いったんほぼ消し止められたものの、強風で再び勢いを増しさらに燃え広がったため、福島県は30日正午、自衛隊に災害派遣を要請し、ともにヘリコプターを出して消火活動に消火活動にあたりました。
警察によりますと、出火から丸1日がたった30日午後5時現在、少なくとも10ヘクタールの山林が焼けたということです。けが人や建物の被害はないということです。
30日の消火活動は日没とともに打ち切られ、福島県などは1日午前5時すぎから再びヘリコプターで消火活動を進める予定です。
現場は東京電力福島第一原発の事故の影響で放射線量が比較的高い帰還困難区域で、警察によりますと、出火した時間帯には浪江町のほかの場所で雷によると見られる火事が起きていたことなどから、警察は落雷が原因と見て詳しい状況を調べています。 4301856分 NHK 

2017年4月27日木曜日

ミサイルデマをやめさせよう



 「もしもミサイルが撃ち込まれたら、頑丈な建物に入り、窓から離れましょう。」
 こんなばかげた指導が公立学校で行われているらしい。
 どうやらうちの地域だけでなく、全国の小中学校で、このような指導が行われているようだ。ここで想定されているミサイルとは、朝鮮のミサイルなのだという。

 朝鮮がミサイルを撃つわけがないだろう。ありえない。完全にあさってを向いた妄想である。
 私はそれほど熱心に新聞を読んでいないし、国際面もパラパラ眺める程度なのだが、そんな私でも、朝鮮が核兵器開発に成功したらしいということは知っている。だから普通に考えて、朝鮮半島が戦争状態になることはない。冷静に客観的に考えてみればわかることだ。
 アメリカが核保有国に侵攻することができるだろうか。できない。まず中国・ロシアという二つの国連常任理事国がゆるさない。では、アメリカが国連を無視して、単独で、または有志国連合で、朝鮮に侵攻することができるだろうか。できない。中国・ロシアを敵にまわしかねないやりかたで、無謀な戦争をするわけがない。
そもそもいま朝鮮に侵攻したところで、アメリカにとって得るものはない。「国際関係のすべてをディール(取引)として考える」と公言したトランプが、得るもののない戦争をするわけがない。
 アメリカが戦争を仕掛けないなら、朝鮮は戦争をしない。戦争をしたところでなんのメリットもないからだ。朝鮮は、核兵器開発に成功したことで外交的に優位な状態を確保したのだから、いまあえて戦争をする理由がない。

 そういうわけで、朝鮮半島有事というものは、ありえない。いまありうるのは外交交渉だけなのだ。
 このことは、米軍の軍事演習や朝鮮軍の軍事演習の映像を見ればわかる。どちらも大規模な軍事演習を行っているが、軍人たちの表情は穏やかで、まったく緊迫した様子がない。朝鮮軍の指導部にいたっては、ニコニコと笑っている始末である。米軍・朝鮮軍双方とも、戦争になることはないということがわかっていて、安心して軍のデモンストレーションに興じているのである。

 朝鮮が日本に向けてミサイルを撃ちこんでくるなどという話は、万に一つもない、悪質なデマである。こんなデマを吹聴するのは、兵器産業に税金を引っ張りたい政商ぐらいなものだ。ミサイル攻撃の危機を煽って、ミサイル防衛システムを売りさばきたいのだろう。原子力発電事業で行き詰った三菱あたりが、今度は兵器産業の分野で税金にたかろうとしているわけだ。どうせそんなところだ。
そうしてまた彼らは嘘をつく。原発を売りつけるために「石油資源が枯渇する」と煽ったように。今度は、ありえないミサイル攻撃を煽って、ミサイル防衛システムなどという役に立たない高額商品を売りつけようというのだから、やり方としてはほとんど霊感商法である。ダニのような連中である。経済産業省は日本経済に寄生するダニである。こういう連中のみえすいた嘘を、ゆるしてはいけない。



 もうひとつ。

 こういう悪質なデマは、社会を侵す。社会関係を支えている人間同士の信頼が、棄損される。朝鮮がミサイルを撃ってくるというデマは、そこに含意されているのは、朝鮮国は何をするかわからない怪物のような国家であるという偏見である。
 事実はそうではない。朝鮮国は怪物の国ではない。何をするかわからない、ということはない。何をするかわからないと言うのなら、それはどんな国家にも言えることであって、朝鮮国の金正恩体制がとりたててクレイジーであるというわけではない。金正恩がどういう人間であるかはよく知らないが、少なくともトランプよりは賢明に見えるし、プーチンよりは繊細さをもった人間に見える。金正恩は誠実な人間ではないかもしれないが、少なくとも安倍晋三よりは責任感をもった人間に見える。
 朝鮮国を怪物のようにみなすことは、やめるべきである。朝鮮国は隣国であり、また、朝鮮人はずっと日本社会に暮らしてきた隣人である。仲よくしようなんてことは言わないが、偏見によって隣人を敵視することは、やめるべきだ。

 いまから約1世紀前、1923年の関東大震災後、陸軍は悪質なデマを流した。「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」というデマである。このデマをうのみにした人間たちは、忌まわしい虐殺事件を起こしていった。殺されたのは朝鮮人だけではない。朝鮮人も日本人も「人間狩り」によって拘束され、虐殺されたのである。この虐殺事件は、東京復興事業の起点となり、「大正デモクラシー」から「昭和ファシズム」への転換点になった。この忌まわしい虐殺事件を想起しながら、現在のミサイルデマを弾劾し、やめさせよう。

くだらない与太話だといって看過してはいけない。
嘘は社会を蝕んでいく。
一人一人に語りかけ、デマをうちけしていこう。




2017年4月15日土曜日

歴史のくずかごは美しくない

 「歴史のくずかご」という表現がある。
「○○を歴史のくずかごへ叩き込め」なんて言い方をする。

 若いころは壮大でかっこいい表現だなあと感じていたが、実際にくずかごの実物を見てみると、まったく見栄えのしないものだ。
 まあ、そうだよね。歴史のくずかごの中身は、くずかごに投げ入れられるべくして投げ入れられたものなのだから、壮大でも美的でもない。
 叩き込む、なんて美しいやりかたではない。目をそむけ、鼻をつまみながら、しかたなく立ち会うものなのだ。

 ところでここで唐突に予言をしたい。
 2017年内、あるいは年度内に、阪大の菊池誠は発症するね。菊池誠というのは、「炉心溶融」と「メルトダウン」は違うという主張をしている菊池誠である。
 菊池誠のメンタルヘルスは、もう、ぎりぎりである。あとひと押しツイッターで小突かれたら、発症する。悪くすると、死ぬね。そして彼が死んでしまったら、誰も彼のことを振り返らない。彼が何をしたか、何を言ったか、彼が存在したことすら、忘れてしまう。


 まったく同情しない。

 当然だと思う。

2017年4月5日水曜日

「復興」政策の正体


復興庁が、みずから馬脚をあらわした。
避難指示地域以外からの「自主避難者」への対応と責任を質問されて、避難者それぞれの判断、「自己責任」、と明言した。
国民一丸となって復興にのぞむ、なんてきれいごとは、もう言わない。「復興」政策が、どれほど多くの人々を切り捨て排除するものであるかを、大臣みずから明言した。この発言がテレビの全国放送で流れたのである。
 6年間の暗い時期を経て、ようやく一筋の光明が差してきた。
「復興」政策反対の議論をはじめよう。



2017年3月25日土曜日

財務省、ひどいね

 森友学園の怪しい土地取引をめぐって、国会がにぎやかである。国会の質疑や証人喚問を見ていると、どんなお笑い番組よりも楽しい。前回選挙で議席を増やした共産党が、質問時間を長くとれていて、とてもよいと思う。


 森友学園問題は、かつて繰り返されてきた汚職議員の疑惑とは、少し違っている。この事件は、たんに政治家の汚職という範疇に収まらない、もっと大きな不正の構造に到達するかもしれない可能性をもっている。
 現在の野党による追究は、形式的には、政治家がどのように財務省に働きかけたか、という視点でおこなわれている。ここでは、事件の主犯は政治家であるという想定で、真相究明が求められている。
だが、質疑が進むにつれて、政治家が主犯で官僚が従犯という想定は、しだいに崩れつつある。私たちの脳裏に浮かんでくるのは、この事件の主犯は財務省官僚なのではないか、という疑念である。これから明るみになっていくだろうことは、たんに自民党議員だとか日本維新の首長だとかの汚職ではなくて、財務省の行政官が何を企て実行してきたかということだ。

 脳裏に浮かぶのは、行政官たちが政治家の意思を待たずに独断で動いている姿である。選挙で選ばれた議員たちの内閣は、たんに行政官が与える「飴」と「鞭」で操縦されているだけなのかもしれない。そうした構図が私たちの脳裏に浮かぶのは、2011年以降の権力の様態を見ているからだ。

 2011年「原子力緊急事態宣言」の発令は、一種の戒厳令状態を生み出している。公衆の放射線防護対策の指針は、被曝防護から被曝受忍へと180度転換したのだが、この重大な政策転換は、立法府の議論を待たず行政府だけで強行された。食品と物品のクリアランス基準は、法ではなく省令によって強行された。議員立法である「チェルノブイリ法」は、全会一致で可決されたが、行政府が運用を拒否し、たなざらしにされている。2011年以降、行政府と立法府のバランスは完全に崩れた。行政権力の専制的性格が露出しているのである。

 「原子力緊急事態宣言」以後、秘密保護法案、安保法制、共謀罪といった法案が次々と強行成立されている。そうした流れのなかで、森友学園問題はたんに与党と野党の党派闘争ではなく、行政権力そのものに焦点をあて、告発する、新たな論争を生み出すものになるだろう。自民党のうしろにいる行政官に注視しよう。


2017年3月18日土曜日

「一遍上人伝」いただきました



栗原康くんから献本をいただきました。ありがとう。


 

死してなお踊れ 一遍上人伝
栗原康 著
河出書房新社  



 いつものことですが、内容について言及はしません。
それよりも、海賊史研究の菰田真介くんと一緒に愛媛県を遊び歩いていたそうで、うらやましい。とても良いことだと思います。旅をしながら考えることは、楽しいし、思わぬ成果があります。




 さて、この本については措くとして、今回はすこし耳の痛い話をします。小言です。


 君ももう充分に本を書いて名をあげたから言いますが、そろそろ東京から撤退してはどうでしょうか。きっとその方がよいと思います。

 問題は、関東の放射能汚染ですが、これはいちいち論じるまでもないことです。爆発事故の直後、埼玉県羽生市と群馬県太田市の児童公園を、何日もかけて一緒に計測してまわったのですから、汚染問題についてはあらためて言うまでもないでしょう。
 私が東京から撤退するべきだと言うのは、もうひとつ別の理由があります。
現在の出版界から距離をとることです。出版界と密接になりすぎてはいけない。それは、書くことを控えるためではなくて、5年後にも10年後にもしっかりと書けるように準備を進めるためです。
 編集者というのは短期的な作業をしている人たちですから、5年後や10年後の見通しを持っているわけではありません。今年なにがあたるかを考える人たちです。そういう人たちと付き合いながらシーンに身を置くことは、良いことです。それはそれでよい。しかし書き手として考えておかなければならないのは、それであと何年もつのか、です。
 いまの人文シーンは、はっきり言って老化しています。読者の中心は、老眼鏡をかけたおじいさんとおばあさんです。この人たちが棺桶に入るころ、シーンは変わる。大きく変わる。そのときに、新しい読者にむけて、何を書くことができるのかです。これはこれできちんと準備しておかなければならない。新しい趨勢のなかに身を置いて、新しい空気を吸って、新たな焦点となるものを準備することです。


 もうながなが言わなくても、わかっていると思います。
 アナーキーの思想は、旧いものでありながら、つねに新しい。慎重さばかりでなく、豪胆さが要求される思想です。


2017年3月13日月曜日

2017年3月の覚え書き

最近、加齢のせいなのか、物忘れが多い。人の名前を忘れてしまう。
なので、忘れてしまったときに読み返せるように、メモをしてのこしておこうと思う。


樋口大二 朝日新聞

和久井孝昭 (全日本自治団体労働組合専従)

大内悟史 99年朝日新聞入社

小波秀雄 京都女子大学名誉教授

岩上欣也

阿久沢悦子 朝日新聞大阪

高橋正行 電力中央研究所


2017年3月11日土曜日

6年目の春に



 東京電力事件から6年がたつ。
 6年たってもまだ、気持ちの整理がつかない。あの日から何があってどうしたのかを、明解な仕方で書くことができない。
 これは自分自身の問題でもあるし、自分をとりまく環境の問題でもある。



 私はあの日、殺されかけたのだと思っている。

こう書くと、なにかの比喩的な表現か、そうでなければ狂言じみた話のように受けとられてしまう。私が生命の危険を感じたということを語って、それを文字通りに信じる人間は、ほとんどいない。
信じる人間がいないから、私は話すこと自体に消極的になる。
放射能汚染の脅威についてどれだけ言葉を尽くして説明しても、どうせ理解されることはないのだ、と。


 これは、犯罪被害者が一般的に経験する問題なのかもしれない。犯罪被害者は、周囲の人々の無理解と無関心にさらされ、孤立を経験する。
 警察はさまざまな犯罪を取り扱い、日本社会に多くの犯罪があることを知っているが、個別の事件については消極的になりがちである。警察が被害者の訴えを狂言扱いして門前払いすることは、しばしばある。
 たとえば、ストーカーの被害者が生命の危険を訴えて被害届を出したとして、警察は積極的には動かない。警察が被害届をつきかえしたケースもある。殴られたり刺されたりしてから来い、という対応だ。面倒なものには蓋をしたいということだろう。
警察が犯罪にたいして無知で、想像力がない、ということではない。むしろその反対だ。警察は犯罪を具体的に知っているからこそ、ストーカーの規制がどれほど面倒なものかを想像し、蓋をしてしまうわけだ。
 そうして犯罪被害者は、犯罪を最も熟知している警察によって、孤立させられることになる。問題は無知ではない。無理解、無関心は、無知とイコールではない。


 放射能汚染を逃れた移住者たちは、人々の無理解にさらされる。
 この無理解は、無知に起因しているものではない。
 私が放射能汚染によって殺されかけた、と言うとき、その言葉の意味をまったく理解できない人間は、本当はいないはずだ。日本で生まれ育ったならば、誰もが広島・長崎の原爆被害を知っている。40歳以上の大人なら、チェルノブイリの事件をよく知っている。茨城県のJCOの臨界事故も記憶に新しい。足尾鉱毒事件や水俣病といった公害事件は、学校の授業で教えられる。政府と公害企業が公害隠しに全力をつくすことは、教科書に書かれている歴史的事実である。
 東北関東からの移住者たちへの無理解というものは、人々の無知の問題として片づけられてしまいがちだが、実際にはそうではない。人々は放射線被曝の脅威を知らないから問題に消極的になっているのではない。むしろその反対だ。人々はそれがどれほど面倒な問題であるかを知っているから、蓋をして、見なかったことにしてしまうのだ。

 彼らに欠けているのは知識ではなく、勇気である。
 これから移住者が人々に示していかなければならないのは、問題に立ち向かう勇気だ。












おまけ

Hey we gotta move...
Hey we gotta move...

これいいね。
こんな感じ。

2017年2月27日月曜日

塚本幼稚園のために涙を流すことはないのだが


 大阪の森友学園・塚本幼稚園が話題だ。

 昨年の今頃は、「保育園に落ちたの私だ。日本死ね。」というブログ記事の話題が日本中を席巻していたのだが、今年は保育園ではなく幼稚園の問題である。昨年・今年と連続して、再生産領域をめぐる議論が繰り広げられている。

 で、問題の塚本幼稚園なのだが、ほとんどギャグというか、2ちゃん的には「釣りだろこれ」というシロモノだ。事実は小説よりなんとかだ。
 この幼稚園について反応するポイントはおそらく二つあって、
① 教育内容が極端な国粋主義であること
② 教育手法が児童虐待事案であること
である。

 政治的な論点としては①の教育内容が「うわあ」ポイントなのだが、実際に大多数の人が感じている「うわあ」ポイントは、②である。②が、すごすぎて、①を圧倒している。
 まだおむつのとれていない子供が失禁した際に、その糞便をそのままかばんに突っ込んで持ち帰らせている件、とか、まだ漢字も読めない幼児に意味不明な長文を唱和させている件、とか。あの子供たちの唱和の映像を見たら、まるで腹話術の人形である。子供を人形のように喋らせることが、「教育」として堂々と行われている。これはかなり「うわあ」である。

 現代の子育て世代の一般的な感覚で言えば、この園長と副園長は「毒親」と呼ばれるものだ。「毒親」とは、子供の人格と尊厳を認めず、自分の意のままに操ろうとして、けっきょく子供をつぶしてしまう親である。親子関係を小さなカルト空間に仕立て上げてしまうサイコパスである。育児に関わらせてはいけない「壊れている」親だ。そういう毒性をもった人間が、自分の子供を支配しようとするだけでなく他人の子供を預かって幼稚園の経営をしてしまっているという事実が、「うわあ」である。

 おそらく塚本幼稚園と私たちとでは、育児をめぐる実践感覚が根本的に違っている。子供の人格権を認めるところから出発するのか、それとも、子供の人格権を認めないまま「しつけ」をするか。「しつけ」と言えばそれらしく聞こえるが、本質的にはサルの調教である。塚本幼稚園にとって子供とは、制裁を加えながら調教されるべきサルである。
 これは、教育手法をめぐる理念とか思想とかいう高度な問題ではなくて、もっとそれ以前の、実践感覚としてズレているという問題である。彼らは人間とサルとの違いを、感覚として体得していない。幼稚園とサル軍団は違うのだということを、感覚としてわからない。われわれがサルではなく人間であるということ、その喜びを、感じることがない。彼らにとって生とは、たんなる痛みだ。彼は痛みから逃れることに人生のすべてを費やす。痛みから逃れることだけを考えるから、言動に一貫性がうまれず、すべてがその場しのぎのものになってしまう。
 2ちゃんねるの既婚女性板ではこういう種類の人間を「ポンコツ」と表現する。この園長と副園長はまさにポンコツである。ポンコツだから、新宗教や愛国心や政治権力に救いをもとめたのかもしれない。しかし、どんなすばらしい教えを信仰したところで、ポンコツは治らない。権威や権力で身を飾っても、ポンコツはポンコツだ。生の文明化の圧力をまえにして、無慈悲に淘汰されていくだろう。

 私たちが「うわあ」と感じ、私たちが育てる子供たちが「うわあ」と感じることによって、彼らは淘汰されていく。
 おそらく10年後には存在しない人々だ。
 再生産は、どんな暴力にもまして無慈悲だと思う。
 直視することがためらわれる、残酷な現実である。





追記
 放射能汚染後の日本では、再生産領域の問題が焦点化することが増えたように思う。人口流出による地方消滅問題、保育園待機児童問題、今回のイカれた幼稚園問題などがそうだし、安保法制に反対する運動もその主力となったのは若い母親たちだった。こうした傾向の直接の引き金となったのは、言うまでもなく放射能公害事件である。2011年以降、若い主婦たちが政治化する趨勢が顕著にあらわれている。彼女たちはたんに放射能汚染に抵抗するだけでなく、社会のさまざまな制度を再審にかける動きに出ている。私はこうした一連の出来事を総称して、「風評被害」革命、と呼んでみたい。
 「風評被害」革命は、政治革命ではなく、もっと広大な領域にひろがる文化の革命である。「風評被害」革命は、無血であるが、無慈悲である。「風評被害」革命は、無言の不服従によって、社会の血流を止め、壊死させる。「風評被害」は、力学的な働きによって制圧するのではなく、体温を奪うことで衰弱させる。この革命は、対象を破壊するのではなく、虚ろにする。
 「風評被害」革命は、どのようなしかたで作用していくのか。着目するべきは、どんな政策がとられているかということよりも、その政策が活力を持って実行されているか否かである。どんな法がありどんな機構があるか、ではなく、それらがいきいきとした実効性をもってあるか、ということである。法を解釈し運用する人間が、熱をもって動いているかどうか。究極的には、人間が、どれだけいきいきと働いているか、あるいは、虚ろな状態におかれているか、である。
 人間がいきいきとしているかしていないかという視点は、漠然としているが、決定的に重要である。これは再生産労働の効果が如実に表れる領域である。
 「風評被害」革命はまず、「復興」政策に加担する国民運動を包囲し、その血流を止め、この国策に関わるボランティア活動をどこか後ろ暗い虚ろなものへと変えていった。国が進める観光都市政策は、西日本と東日本とで明暗を分ける結果になっている。学校運営は、給食問題を引き金にして、保護者の非協力的な態度にさらされている。「風評被害」革命の進行によって、東日本の汚染地域では、なにもかもがうまくいかない、虚ろな状態に陥ることになる。私たちはこれから、人間がいきいきとしていないという状態が、どれほど過酷なものであるかを、見ることになる。


2017年2月16日木曜日

大画面テレビ



今夜は母の家で留守番をしている。岐阜県の温泉に一泊旅行に出かけているあいだ犬と猫の世話をしてほしい、ということで、今夜は実家警備員。45才。

 しっかし、いまどきのテレビというのは、でかいな。大画面がすぎる。何型というのか何インチというのかわからないが、人間のバストショットが、実在の人間と同じぐらいのサイズになっている。やりすぎだろう。最初はレンタルビデオを見ながら「大画面だとなかなか迫力があるなあ」と思ったりもしたが、映画を一本見終わったあたりで飽きる。これは、逆に、うっとうしい。
 現代の高齢者というのは、こういうテレビを普通に見ているのだろうか。地上波デジタルの強制買い替えで、こういう環境が一般的になってしまったのだろうか。仮に、この画面が50平米ぐらいのリビングルームに置かれているのなら、まだ目の逃がし場所もある。しかし、20平米そこそこのこじんまりしたお茶の間に、こんな大画面置いたらダメだよ。ほとんど圧迫面接です。
 想像するに、昼間のテレビ番組というのはけっこう下品であるから、この画面がおかれた空間には、関西弁で右翼的主張をする下品なアナウンサーが人間と同じスケールで侵入してくるわけだ。目の前に現れた人間サイズの首が、ひっきりなしにまくしたててくるわけだ。これはひどい環境だ。メディア社会学のスティグレールなら、いやスティグレールを持ち出すまでもなく、知覚環境が汚染されている。こんな状態に日常的にさらされていたら、感覚がおかしくなってしまう。現代の高齢者の知覚環境は、地上派デジタル強制を境に、ずいぶんとひどい汚染状態に陥っているのではないか。

 私が小さいころ、昭和の終わりごろは、テレビはもっと小さかった。子供はテレビ画面ににじりより、「もっとテレビから離れて見なさい」とどやされるぐらいに、画面は小さく、画面の中の人は小さかった。そこでは、生きている現実の人間と、画面の中で喋っている人間とが、はっきりと区別されていた。画面のサイズの小ささと解像度の低さが、近さと遠さをつくり、現実と放送との遠近感をつくっていたわけだ。
 それに対して、現在の大画面高解像度のテレビは、遠近感を失う。まるで親しい友人を家に招待したのと同じサイズで、宮根誠司や辛坊治郎がお茶の間にずかずか上がり込んできているのだ。毎日。これはやばい。

 人間サイズの首に毎日まくしたてられ、現実と虚構の区別を失った高齢者たちは、十中八九、ネトウヨになる。テレビに教育されたネトウヨは、「北朝鮮の脅威」を現実的なものと感じ、放射線被曝は非現実的なものと感じるのだ。
 大問題だ。



2017年2月9日木曜日

アレバ社に死亡フラグ?

 フランス北西部のフラマンビル原子力発電所で、爆発事故。
運転中だった原子炉1号機は停止されたとあるが、これはまだ第一報なので。
ちゃんと冷却できたらいいなあ。

ところでフランスといえば、原子力企業アレバ社は、新型原子炉の建設が暗礁に乗り上げて、経営が傾きかけている。日本の原子力企業三菱が資金を出して支える予定だが、これはもう、無理だね。
完全に死亡フラグがたっている。

アレバ、ざまあみろ。
アレバから金をもらってきた「エートス」的な団体も、遠からず店じまいだね。

2017年2月8日水曜日

科学論争へ


 一昨日、名古屋共産研の会議、と、飲み会。

 今年の全体方針は、放射能汚染をめぐる科学論争と、科学行政批判を軸にする、ということに決まりました。
次回会議で、論点出しをやって、作業を進めていきます。


 共産主義者は科学の子ですから、社会科学だろうが自然科学だろうが、すべてを科学的に点検・審査しなくてはなりません。
 共産主義者は分業制の克服・解体をめざす者ですから、釣りをすることやチャーハンをつくることと同じように、科学論争に加わりその担い手にならなくてはなりません。
 共産主義者はブルジョア国家に反対する者ですから、ブルジョア国家が授与したにすぎない学位・職位・「専門性」を鵜吞みにすることはないし、その欺瞞性が明らかになったこの機会に乗じて、一気に転覆をはかるべきです。


 いま放射線防護活動の現場では、高卒の主婦が、放射線検出器を自在に扱っています。彼女たちは検出器の原理を学び、その能力と、運用と、限界を知っています。文部科学省がどのようなごまかしをやっているかを、政治的にではなく科学的に指摘することができます。彼女は分業と性別役割分業を超えて、ひとりの科学者になっています。彼女は共産主義者ではないが、共産主義者を自称する者よりもずっと共産主義的なのです。
 こうした市民科学者たちの姿勢に学び、あとに続かなくてはなりません。“市民科学者”という概念に不満があるなら、“人民科学者”と言ってもよい。分業制の克服は、遠い将来に待ち望む夢想ではなく、現在の切迫した課題としてあって、すでに多くの人々によって実践されているのです。ブルジョア国家の科学行政がどのようなインチキをやっているかを、自らの手で暴いていかなくてはなりません。安斎だの小出だの「専門家」を呼んで講演会をやっていっちょうあがりという態度は、もうやめにしましょう。自分自身が科学論争の担い手になるのです。共産主義者を自認する者は、ひとりの例外もなく、科学者になるべきです。
 身構えることはありません。放射線の「専門家」なんてのは、素人に毛が生えたようなもの、読んでみれば穴だらけです。

 そういうわけで、今年は科学論争に取り組みます。
 きっと楽しくなります。
 刺激的な論争をつくっていきましょう。



集会報告集ができました



昨年末、名古屋共産研主催による政治集会  “12・17「放射脳」左翼全国集会” をおこないました。その基調講演と自由討論を文字に起こして、報告集ができました。

取り扱い書店は、

●ウニタ書店(名古屋)http://www.h6.dion.ne.jp/~unita731/index.html

●模索舎(東京) http://www.mosakusha.com/voice_of_the_staff/

です。

2017年2月2日木曜日

命が大事


 
 他人の死に接したとき、人は、他人の死と自分の生を照らし合わせる。死と生を対照して考えたときに、ある単純な事実に気づく。
 生きているとは、たんに死んでいないという状態をさすのではない。
 生きるとは、死に抗う運動である。

 人間はいつか必ず死ぬ。生命の時間は最期の死の瞬間に向かって不可逆的に進む。しかし、生きていることとは、まだ死んでいないということではない。死までの猶予期間を生かされているということではない。生きるとは、死に向かっていく時間に抗い、逆向きに進んでいく、運動である。
 だから、他人の死に接したとき、人が恐れているのは、死ではない。そこで畏怖されているのは、死によって照らし出された生、自分自身の生である。人が死に魅了されたり、他人の死に足を取られたりするのは、死それ自体に何かがあるからではない。生が、おそろしいからである。ただ生きているというありふれて見える状態が、ほんとうは、生半可な気持ちでは乗り切れない大仕事であるという事実に気づいたとき、人は生を畏怖し、震えるのだ。

 生命は、熱と力の渦に巻き込まれていて、つねに、表面的には静止して見えるときにも、激しい運動の渦中にある。生理学的なレベルでもそうなのだから、「生命」と言わず「人生」と言うのなら、なおさらそうだ。人生とは、力の渦中にあってもがき続ける、不断の闘争である。

 人々が「放射脳」の存在から目を背けてきたのは、彼らが死を口にするからではない。人々が「放射脳」をおそれるのは、彼らが生を問う者だからだ。いや、直接に口にすることはない。彼女はただ心の中で自問自答しているだけだ。自分の生はどのようなものとしてあるのか、と。
自分の生は、ただ死までの猶予期間を生かされているというだけのものにすぎないのか。
それとも、別のなにか。



 こうしてみると、「命が大事」という聞きなれた標語が、どれほどラディカルで戦闘的な内容を含んでいるかがわかる。「命が大事」とは、「命の闘い」である。これは「命をかけた闘い」ではもちろんないし、また、「命のための闘い」ですらない。そんな平板なものではない。
「命が大事」とは、命自身による闘い、命が命自身を問うていく闘いである。
 すげえんだ。
 命が大事。


2017年1月28日土曜日

「園くんを励ます会」



 東京で活動していた園良太くんが、大阪に移住したということで、先行移住者や大阪の活動家が集まって、飲み会をしました。
 大阪のなんば道頓堀にある居酒屋で、「園くんを励ます会」。大阪、和歌山、兵庫の「放射脳」移住者のみなさん、名古屋と京都から「名古屋共産主義研究会」、さらに「ラジオKY」の小島さんが参加して、「放射脳」トーク。最後は、園くんの健康を祈って、一本締めでしめました。

で、月1回ぐらいは集まって飲もうということになりました。


 来月も(たぶん)大阪に行きます。よろしく。

2017年1月13日金曜日

デマゴギーと「業界」


 このかんの放射能汚染問題は、おびただしい数のデマゴギーを流通させてきた。放射能の安全神話は、嘘やごまかしや印象操作を大量に投入し、あたかも日本中の人々が被曝被害を不問にしたかのようであった。
しかし、嘘は長続きしない。これから、誰が嘘をつき、誰が真実を言っていたか、審判がくだる。



 この6年間のデマゴギー状況を振り返って、ひとつわかったことがある。
 デマゴギーの温床は、「業界」である。

 社会学の用語では〈界〉である。さまざまな分野に〈界〉がある。
わかりやすい例をとると、報道には報道の〈界〉(業界)がある。〈界〉は、他の分野とは隔たった輪郭をもち、自律している。〈界〉は、内部では成員同士の競合関係があり、全体としては自律している。この〈界〉の自律性を保持する構造に、デマゴギーの温床がある。
 社会学者ピエール・ブルデューによれば、〈界〉の内部の競合関係は、「ババ抜き」や「椅子取りゲーム」に喩えられる。そして、ある〈界〉が自律している(閉じている)ということは、言い換えれば、〈界〉の構成員の関心事は第一に〈界〉内部の動向である、ということである。報道機関の一人一人の記者は、もちろん現実に起きている出来事に関心をもって(外部に関心を開いて)取材をするのだが、しかしそれ以上に、同業他社の記事を気にかけ、参照している。彼らは同業者の競合関係のなかで、お互いの仕事を参照しあい、相互に監視しあっている。
 例えば、ある事件を取材するか否かを決めるさいに重要な判断材料になるのは、その事件を他社が取材しているかどうかである。他社がこぞって取材しているのに、自社だけが取材しないと判断することはありえない。また、他社がどこも追っていない話題を、自社だけで取材するというのも、負担感が大きい。そうして、事件の重要性を判断することとは別に、取材の是非が決定していたりする。皆が関心を持っているからではない。自分だけ「ババ」をひくわけにはいかないからだ。この構造が「メディアスクラム」を生み出す。読者の関心や社会的な重要性を超えて、〈界〉の競合関係が暴走をはじめるのである。「メディアスクラム」は極端ではあるが例外的な現象ではなく、恒常的に働いている〈界〉の力学を示すものだ。全国紙の一面とその出来事の解釈について各社が横並びになることは、日常的にあることだ。
 ここで見るべきは、〈界〉の自律性の内側では、ひとりひとりの記者が自律性を失っている、ということだ。記者個人は、報道機関という〈界〉が自律的であることによって自分自身も自律的であるとみなしているが、実際には、〈界〉内部の競合関係によって個人の自律性を失っている。彼がどのような事実を調べどのように書いたかは、常に同業他社との競合関係の中で評価され、査定されている。この査定をクリアするために必要なのは、〈界〉から見て「ユニークである」ことと「ユニークすぎない」こととのバランスである。もしも彼が〈界〉にとって「ユニークすぎる」記事を書いてしまったら、〈界〉の成員は彼を「記者ではないべつのもの」と評価することになる。それは、競合関係の「椅子取りゲーム」のなかで椅子を失うということだ。だから、もしも彼がジャーナリストであり続けたいと思うなら、自分の関心や着想よりも、「報道業界」の関心や着想に配慮しなければならない。彼のことをジャーナリストとして承認するのは、自分でも読者でもなく、同業者たちだからである。彼は自分が何者であるかを自分自身で決めることができない。彼が何者であるかは〈界〉のゲームに委ねられ、そのことで彼は〈界〉に従属するのである。

 ブルデューの〈界〉概念は、一般的な概念である。ここでは「報道業界」を例にとったが、同じことは大学人にも言えるし、社会運動にも言える。それぞれに〈界〉があり、お互いに競合しつつ参照しあう「業界」というものがある。「業界」は成員を相互に承認しあい、そのことで、成員相互が監視しあう三すくみ四すくみの状態を作り出す。
 知識階層の多くが放射能汚染問題を理解しつつ、そのことを公然と表現できないでいるのは、この〈界〉の相互監視の力学が彼らに向けて働いているからだろう。彼は放射能問題を気にかけてはいるが、そのことよりもまず、自分が属している〈界〉のゲームを首尾よく切りぬけたいと考えている。自分だけが「ババ」をひいたり、自分だけが矢面に立ったりはしたくないのだろう。そうして知識階層の諸々の「業界」が三すくみになっているのを尻目に、デマゴギーが大手を振って歩いているというわけだ。

 この6年間、放射能汚染問題を公然と告発し、矢面にたって闘ってきたのは、主婦である。なぜなら主婦とは、「業界」に属さない単独者だからである。彼女(彼)は、2011年の事件が起きるずっと以前に、「業界」から足抜けしていた。あるいは、そもそも最初から「業界」と無縁であった。
 主婦は、〈界〉から自由である。この自由は両義的なものである。それは否定的な側面をとれば、あらゆる〈界〉から排除されている、「椅子とりゲーム」に参加できないアウトサイダーである、ということだ。肯定的な側面をとれば、どんな〈界〉のゲームにも従属することがない、自分が〈界〉に参画しているなどという幻想を持つことがない、ということである。そして現在のデマゴギー状況のなかでは、この自由の肯定的な力が発揮されている。排除されていること、被差別であることが、嘘や欺瞞を退ける力に転化しているわけだ。

 楽しい。考えるだけでわくわくする。
 そう。主婦は単独者であるが、同時に、多数者である。
 誰でも主婦になることができる。
 この境遇は特権的なものではなく、誰に対しても開かれている。



2017年1月1日日曜日

素敵な出会いを求めて



 東京電力事件から6年。今年2017年は、出会いの年になります。

 事件直後に日本政府が号令した「絆」キャンペーンは、ぶざまに破たんしました。福島現地に向かう「復興」ボランティアもいなくなりました。これから福島県の人口は、被曝死と県外移転者によって、加速度的に減少していきます。
 共同体の力を信じた蒙昧な分子は、ばつが悪そうに沈黙しています。この共同体信仰の解体は、福島県だけに生じているものではありません。汚染地帯となった首都圏でもそうだし、また、汚染されていない大阪でも、共同体主義が没落していきます。事件から5年間の第1フェイズでは、われわれ「放射脳」移住者の正しさが証明される結果になりました。

 共同体が解体したのち、私たちは出会いなおします。見知らぬ土地に避難した人々は、その土地で誰かと出会い、愛し合う。夫と離婚した母子避難者も、いずれは再婚します。このプロセスは不可避です。われわれ移住者は、日本社会のすべてに背を向けて深い孤独を選んだ者ですが、しかし5年も経てば、孤独であることにも飽きてきます。いろいろな人と出会い、魅かれあうこともあるのです。

 これから数年間、東電事件後の第2フェイズは、二つの異質な共同性が並存します。
没落していく古い共同体の残滓と、新たに形成された共同性とが、はっきりとコントラストをもってあらわれてきます。東日本から逃散した「放射脳」は数万人ですが、今後さらに膨張していきます。彼らは新しい思想とハビトゥスを生み出す前衛的な役割を担います。
 ものの見方、話しかた、聞きかた、表現の様式が変わります。社会に背を向けた孤独な者たちが、彼らにしか為しえないような新しい文化をつくりだすのです。

 おもしろくなってきました。
 今年はきっといい年になります。