2017年8月29日火曜日

疎外に親しむこと、疎外から力をひきだすこと



 東京電力による放射能汚染問題は、放射性セシウム・放射性ストロンチウムを基準にして300年は続くものです。プルトニウムを基準にすれば、20万年は続きます。平野部分の回復は、これよりももっと短いものになるかもしれませんが、山林と海洋は長く毒性を保持し続けることになるでしょう。人間は、これまであまり問題にしないできた新しい環境と対峙することになりました。私たちは酸素が希薄な場所では生きられないように、放射線濃度の高い地域では生きられないのです。この汚染を技術的に克服する手段は、現在のところ存在しません。


 人間の棲息環境が大きく変わってしまったという事実に、私たちは驚きました。想像を超える途方もない事態に、面食らったのです。しかし事件から6年も経った現在、そろそろ面食らっている時期も過ぎたのではないかと思います。いつまでも泣き言を言っていても始まらない。日本列島は陸地の三分の一を失い、太平洋を失ったのです。この事実は動かない。いまは慟哭している老人たちも、十年後には死に絶えます。私たちは未来に向かってどのように歩むのかを考えなくてはならないのです。


 これからの思想に必要とされるのは、新たに現れた疎外と対峙しながら、この疎外に親しみ、疎外から力を引き出すことです。ここで私が言うのは思想の内容ではなく、姿勢の問題です。考える際にとるべき構えです。腹を据えて、ハートを強くもつこと。広域放射能汚染というこの巨大な疎外を、むしろ楽しんでみることです。
 原子力時代のアナキズム、原子力時代の共産主義、原子力時代のフェミニズム、原子力時代の革命主義、原子力時代の陣地線論、原子力のテクスト分析、原子力時代の生‐権力、放射能汚染時代のサバルタン、等々、なんでもいいんです。いま私たちは、新しい知性が生みだされるまったく新しい条件に立ったのです。この機会を捉えずに、ただうなだれたり、腕をこまねいていたりするのなら、理論作業なんていらない。ただただ嘆いて神仏を拝んでおればよい。


 もう嘆くのはやめて、次の時代の話をしましょう。
 私は新しい議論の、新しい星図の、一つになりたいのです。

2017年8月22日火曜日

倒錯的なものの力について



 4ヵ月かけて準備してきた共産研8月集会が終わり、事後の作業を進めています。 

 作業の合間に、ファレル・ウィリアムスの『HAPPY』を聴いています。
 この曲、ファンキーなリズムに透きとおったファルセットボイスをのせて、2014年に大ヒットした名曲。
 歌詞の内容は、こうです。


今から言うことはどうかしちゃったと思うかもしれないけど、 
こんないいお天気だから、ちょっと休もうよ。 
宇宙まで行く熱気球になったみたい。 
大空の中では、何も気にしないよ baby  
だってハッピーだから。 
部屋に天井がない感じになったら、手を叩こう。 
だってハッピーだから。 
幸せってのは本当なんだって感じたら、手を叩こう。 
やりたかったのはこれって判ったら、手を叩こう。


 すごい歌詞ですね。
これ、薬物でラリっているように見えるかもしれませんが、ラリっているのではありません。ヤケになって挑発しているようにも見えますが、ただ挑発したいというのでもない。

 まじめに生きようとする人間が、まじめすぎてまじめの向こう側に突き抜けてしまった先に、倒錯的なものの力に触れる。なにが“HAPPY”なのかというと、自分自身が持っているこの倒錯的なものの力を発見したことが、HAPPY。こうなるともう薬物にたよる必要はありません。いつでもどこでも自家発電できてしまうわけですから。
 悲しみと孤独と絶望をくぐった先に、誰もいない道端で、ただひとりで、ニヤニヤと笑みを浮かべる人間が生まれるのです。フェリックス・ガタリが「狂気になること」と言ったのは、もしかしたらこういうことなのかもしれません。



『HAPPY』ファレル・ウィリアムス






2017年8月17日木曜日

8月集会のれじゅめ


いよいよ明後日、名古屋共産研の集会です。
8・19集会「放射能安全神話を解体するために」

集会に先立って、報告者の蔵田計成氏(ゴフマン研究会)から、論文を一ついただきました。この論文、分量がそこそこあるので、関係者の皆さんには事前に送付しました。

で、私の報告の方のれじゅめは、ほぼメモみたいなものなので、ここで公開しておきます。

以下、れじゅめです。


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れじゅめ 『放射線防護のシャドウワーク』

2017/08/19 矢部史郎

1 放射線防護とは何をすることなのか
 1-1 汚染調査
 1-2 汚染地域の立ち入り制限
 1-3 汚染物質の回収、拡散防止
 1-4 被曝者にたいする医療措置

 日本政府は必要な防護措置のほとんどを放棄した。東電事件がもたらした被害は、政府の手に余るものであった。


2 政府が放棄したものを誰が引き受けたのか
 2-1 市民測定活動
 2-2 自主避難・旅行制限
 2-3 東日本産商品の不買
 2-4 各家庭での健康管理

 公衆の放射線防護対策を担ったのは、市民による無償の活動である。その主要な担い手は、子育て世代の主婦であった。


3 クリアランスのイデオロギー
 3-1 予防原則の廃棄
 3-2 「適正」と「過剰」
 3-3 防護派を悪魔化する = ネグレクトと寄生の正当化
 3-4 被曝受忍という政策判断に、科学の装いを与えること
 3-5 科学の名で政策論争を封じ、政策論によって科学的批判を封じること

 クリアランスをめぐる論争は、純然な自然科学の論争にはなりえない。この論争は、行政の専制と民主主義勢力との政策論争になる。


4 「復興」政策のほころび
 4-1 帰還政策の破たん
 4-2 健康被害の顕在化
 4-3 「風評被害」のイニシアティブ
 4-3 議会政党の後景化、人民民主主義へ

 生命を収奪する「復興」政策は、破たんする。そのことで、生命を護持してきた「風評被害」勢力が、論争のイニシアティブをとることになる。議会政党は求心力を低下させる。



2017年8月12日土曜日

新刊『経済的徴兵制をぶっ潰せ!』、いただきました


献本をいただきました。ありがとうございます。


 

岩波ブックレット No.971
『経済的徴兵制をぶっ潰せ! 戦争と学生』
著=大野英士、雨宮処凛、入江公康、栗原康、白井聡、高橋若木、布施祐仁、マニュエルヤン
発行=岩波書店


 このブックレット、ブックレットにしては高度な内容を含んでいて、充分な読みごたえがあります。
 発言者はみなそれぞれに経験を積んできた中堅です。交わされている議論は若すぎず、古すぎず、この10年間に取り組まれてきた具体的な実践の成果を出しています。
教育政策が、労務政策と戦争政策に包摂されてしまう時代を、よく描写しています。
 本書は現代の教育問題を考えるための基本文献になると思います。






 さて、お礼のあいさつはここまでにして、本題。

 教育政策と労務政策と戦争政策とを結びつけ、明解に表現しています。そうであるのにどこか、議論を寸止めにしているという感が、ぬぐえない。喉元まで出てきている言葉を呑み込んで、なにかに忖度している感が、あります。

 「戦争と学生」、「経済的徴兵制」、いいんですよ。いいんだけれども、しかしもう一言、言わなければならないことがあったでしょう。

 「放射能と学生」、でしょう。
 これを言わないと。

 登壇者の白井聡くんは、持ち前のコピーセンスを発揮して、「馬鹿はすぐ死ぬ」と言っています。トルストイを引用して。そのとおりです。「馬鹿」は安い愛国心にとりつかれて、真っ先に死んでしまうんです。そうやって「馬鹿な人」が無残に死んでいくのをどうやって止められるのか、考えようと、白井くんは言うわけです。まったくそのとおりです。
 で、そうした構造を、いま如実に体現しているのが、学生の被曝者です。
 放射線被曝に対する感受性は、若ければ若いほど強い。若者は放射線の被害を強く受けてしまう。だから、学生や若者たちはとくに放射線から防護されなくてはならない。これは2011年以降に常識となったものです。
 こうした認識が一般的に共有されていながら、学生を福島に連れて行った教員がたくさんいたのです。米軍や自衛隊でも躊躇するような汚染地域に、マスクもゴーグルもなしに飛び込んでいった(飛び込まされた)学生がいたわけです。高い学費を払って、将来の展望もなく、ただ「社会活動の実績」をつくるために、「復興」ボランティアに動員された学生たちがいた。頭のいい学生は、行きません。親がしっかりしている家庭なら、行かせません。頭が弱くて、親がしっかりしていない、社会的に不利な位置におかれた学生が、福島のボランティア活動に動員されていったのです。

 彼らは、現代の「入市被曝者」です。これはのちのち大問題になります。「経済的徴兵制」の残酷さは、すでに福島「復興」政策にあらわれています。
このことを言いましょう。
提案です。学生を搾取するボランティア活動を、告発し、弾劾していきましょう。



2017年8月11日金曜日

ペペさん、動いて


昨晩、大阪の京橋に行って、酒井さんと飲みました。

矢部「ペペ長谷川を大阪に移転させるために、僕は50万円用意しますよ。酒井さんも50万出してください。」
酒井「まじかよ。うーん。10万ぐらいなら出せるけどねえ」
矢部「10万て。ペペさんに10万ですか。」
酒井「うーん。わかった。20万。」
矢部「20万て。まあいいや、酒井さんは20万で、あと何人か声かけて100万用意しましょう。」
酒井「うーん。どうかなあ」

というわけで、現段階で70万円あります。
ペペ長谷川さん、引越しの検討を始めてください。


2017年8月8日火曜日

立ったままで歌を歌おう

 東京で闘病していた松平君が、今朝、亡くなったそうです。
 私は東京には行きませんが、名古屋から冥福を祈ります。

 若くしてガンを発症し、闘病のなかで放射能汚染問題を告発した人間がいたこと、
2017年の8月に彼が逝ったことを、忘れないでいよう。

 彼と、彼の友人のために、歌をたむけます。 




立ったままで歌を歌おう
犯されたこの大地が
自由の中に生まれ変わる
その日がやがて来るまでは
このまま歩き続け
闘いの火を燃やそう
         ヴィクトル・ハラ





2017年8月4日金曜日

3・11 言説の物神性



 高橋哲哉という学者が『犠牲のシステム』と言ってみたり、小倉利丸という学者が「福島の悲劇」と言ってみたり、こうした現象について、深夜のデニーズで討議しました。
 「犠牲」や「悲劇」といった言葉が選択されるのは、なぜなのか。どのような力学がそれをさせているのか。

 ざっくばらんに言えば、我々の感覚からはほど遠い、まるで宗教者のようなやり方です。まず唯物論的でない。弁証法的でもない。思考を明晰にするのではなく、かえって蒙昧のなかにおいてしまう、言葉。バズワードですね。学者の仕事としては、ちょっとありえないやり方ですよ。ねえ。創価学会じゃないんだから。

 高橋哲哉はデリダ読みですから、つまり形而上学批判という看板の形而上学なので、これはまあ、ありそうな話です。しかし小倉利丸は経済学者ですから、彼の口から「悲劇」という表現が出てくるのは、不思議な話ではあるのです。学術的にどのような文脈があって「悲劇」という表現を容認したのか、小一時間問い詰めてもよい話なのです。

 まあこの件は些事と言えば些事なので、夏の集会のあとに、やります。
物を書く人間が、言説という商品の物神性にどれだけ依存しているのかについて。

ちゃんとやらないとですね。

名古屋共産研、夏の集会



 今月19日、名古屋で集会をやります。名古屋共産研が主催する2回目の集会です。
 今回は、ゲストにゴフマン研究会の蔵田計成氏を招き、討議をします。議論の内容を深めるために、セミクローズで行います。この議論に参加したい方は、集会案内を送りますので、ご連絡ください。


名古屋共産研 8・19集会
『 放射能安全神話を解体するために 』

<プログラム>

13時~
報告1
 蔵田計成氏(ゴフマン研究会)
  『 ALARAのイデオロギーとその歴史 』

報告2
 矢部史郎(名古屋共産研)
  『 放射線防護のシャドウワーク~「経済合理性」は何に寄生しているか 』

  (休憩)

1430分~
 自由討論

17時 閉会

1730分~
 参加者交流会