2017年8月4日金曜日

3・11 言説の物神性



 高橋哲哉という学者が『犠牲のシステム』と言ってみたり、小倉利丸という学者が「福島の悲劇」と言ってみたり、こうした現象について、深夜のデニーズで討議しました。
 「犠牲」や「悲劇」といった言葉が選択されるのは、なぜなのか。どのような力学がそれをさせているのか。

 ざっくばらんに言えば、我々の感覚からはほど遠い、まるで宗教者のようなやり方です。まず唯物論的でない。弁証法的でもない。思考を明晰にするのではなく、かえって蒙昧のなかにおいてしまう、言葉。バズワードですね。学者の仕事としては、ちょっとありえないやり方ですよ。ねえ。創価学会じゃないんだから。

 高橋哲哉はデリダ読みですから、つまり形而上学批判という看板の形而上学なので、これはまあ、ありそうな話です。しかし小倉利丸は経済学者ですから、彼の口から「悲劇」という表現が出てくるのは、不思議な話ではあるのです。学術的にどのような文脈があって「悲劇」という表現を容認したのか、小一時間問い詰めてもよい話なのです。

 まあこの件は些事と言えば些事なので、夏の集会のあとに、やります。
物を書く人間が、言説という商品の物神性にどれだけ依存しているのかについて。

ちゃんとやらないとですね。