2017年9月24日日曜日

二重権力戦略における民話と伝説



 名古屋共産研の『8・19集会報告集』が完成し、昨日発送しました。
ウニタ書店(名古屋)、カライモブックス(京都)、模索舎(東京)で販売しますので、よろしくお願いします。

 ところで、8・19集会に参加していただいた蔵田計成氏に電話をしたところ、ちょっと落ちこんでいるようだったので、彼の問いに対する応答として、ひとつ文章を書きます。
  


 まず、昨年来から話題になっている太田昌国氏の講演録『新左翼はなぜ力を亡くしたのか』に関するコメントから始めます。

 私が広い意味での「新左翼」運動に関わりをもったのは、いまから30年前、80年代の末頃です。いまから振り返れば、80年代は市民運動がおおきく高揚した時期でした。
当時課題となっていたのは、中曽根政権による国鉄分割民営化問題、昭和天皇死去に伴う反天皇制運動、寄せ場・日雇い労働者の運動、在日韓国人の指紋押捺拒否闘争、沖縄では日の丸が焼き捨てられ、戦中の従軍慰安婦問題の告発もこの時期に準備されました。そして諸々の運動が勃興していく契機となったのは、86年のチェルノブイリ事件と反原発運動の爆発的拡大でした。チェルノブイリ事件後の反原発運動は、多くの女性たちを動かし、社会運動を活発化させました。彼女たちは議会政治においては、社会党を「土井社会党」へと生成変化させ、そのインパクトが90年代の議会政治再編の動因となりました。
 何を言いたいかというと、ひとくちに「新左翼」と言っても、蔵田氏と私とでは、参照する時期が違っているということです。蔵田氏が考えようとしているのは、50年代末から80年頃までの時期、朝鮮戦争~日米安保条約~ベトナム戦争の時期の新左翼です。私が見てきたのは、86年末から現在までの新左翼です。私が見てきた「新左翼」と、蔵田氏が考えようとしている「新左翼」は、まったく別物ではないけれども、かなり様相が違っているのです。
 そうなると、太田氏が語る『新左翼はなぜ力を亡くしたのか』という問いも、受け止め方が違ってきます。私の年代の人間から見ると、彼の設問自体が、新左翼のある時期に限定した問いであるということになります。

 厳密さは脇において、私見として、おおざっぱな枠組みを言います。
 45年から50年代の左翼は、綱領的にも実体的にも、マルクス=レーニン主義の運動です。経済成長を果たしたのち、60年代からは、グラムシ主義、「構造改革派」が席巻していきます。これは新左翼も共産党も社会党左派も含めて、多くの左翼が、構造改革路線の二重権力戦略へと向かっていきます。大戦後のいわゆる「55年体制」は、共産党の武装解除、革命主義の凍結、「構造改革」諸派の形成をもたらしました。こうした転換のなかで、共産主義者同盟は革命主義を放棄しなかった。共産同は、武装解除ではなく、武装の強化へと向かっていきました。
 しかしここで逆説的なことは、共産同は、革命主義でありながら、結果として二重権力戦略の実現に寄与していくのです。主観的には革命主義であり、客観的には二重権力戦略の担い手であるという、このねじれが、共産同のおもしろさだと思います。いや、おもしろいことばかりではないけれども、あえて肯定的に言えば、このねじれた様態こそが共産同のおもしろさです。
 私がこういうことを言うのは、80年代以降の運動状況をみているからです。市民運動という運動スタイルが、たんに社民主義に従属するのではなく、また、穏健な構造改革派のたんなるフロント組織ではないものとして、存在した。なぜ日本の市民運動は、政治党派のたんなる道具ではないものとして、自律的な暴力性を帯びて存在することができたのか。その運動の文化はどのようにして生まれたのか。私の主要な関心はここです。
 だから、『なぜ新左翼は力を亡くしたのか』という設問にかえて、私が問いを組みなおすとすれば、こうです。
『なぜ新左翼はいまも生き残っているのか』
『新左翼のなにが人々を惹きつけてきたのか』

 
 さて、ここから本題です。
 共産主義者同盟は、綱領的にはマルクス=レーニン主義です。綱領だけをとりだして見れば、新左翼諸派のなかでもとくに古い、「古左翼」の部類です。
しかし日本の新左翼の歴史を考えるときに、共産同の存在を抜きには語れません。共産同は、綱領的には古典的なものをもちながら、実体としては新しいスタイルを構築しました。共産同は、頭の中身は革命主義で首から下はグラムシ主義者、あるいは、頭の中身はレーニン主義で首から下はブランキスト、という、新しい活動家のスタイルを生み出したのです。この実体としての新しさは、もっと評価されてよいのではないかと思います。
 私は理論活動を重視しますが、理論を絶対視することはしません。なぜなら人間は、自分が意図したものとは違うものを生み出してしまうことがあるからです。そして運動は、理論や綱領よりも文化に依存する部分が大きいと考えるからです。
対抗権力、対抗権威、権力と対決する陣形を構築するためには、理論的な作業が不可欠です。しかしたんに理論があるだけでは、人々を動かすことはできません。対抗権力の核となるのは、権力と対決する文化です。
 新左翼の活動家たちを見れば、このことは明白です。彼らの口にのぼるのは、たんに理論的な争点だけではありません。運動の歴史でもありません。活動家が語るのは、歴史に書かれないような断片的で小さな逸話です。固有の地名や固有の日付をもった逸話です。それは人によっては「砂川」であったり、「615日」であったり、また別の人は「佐世保」であったり、「108日」であったり、あるいは「三角公園」であったりする。そうした無数の民話、無数の伝説です。
対抗権力を下支えしているのは、人々が権力と対決するなかで生み出されてきた無数の民話・伝説です。権力と対決する文化を再生産するのは、闘いの民話・伝説です。そしてこの民話と伝説を保持し続けてきたことが、新左翼がいまも生き続けている理由であるとおもいます。議会政党は、この民話の再生産に失敗しました。議会外左翼(新左翼)だけが、闘いの伝説を語ることができて、権力と対決する文化を再生産できているのです。

 『国家に抗する社会』を著した人類学者ピエール・クラストルは、アメリカの未開民族の社会を研究するなかで、長老の役割を描写しています。要約すると、こうです。
 国家をもたない社会において、長老の役割は、伝説を語ることである。ところが若者たちは、長老の話に耳を傾けない。長老は、誰も聞いていないのに伝説を語り続ける。それが長老の任務だからである。
 権力を集中させない健全な社会において、語ることとは、こういうスタイルで行われるのです。長老の語りは、指令や指導として機能するものではありません。話を半分差し引いて、ああまたその話かと聞き流されるべきものです。そしてそうやって聞き流された民話と伝説が、若者たちの生きる指針となるのです。それは指令ではないことによって、人々を衝き動かします。それは戒律ではないことによって、人々に節度を求めるのです。


こういうわけなので、蔵田さん、あまり落ち込まないでください。

私たちのような新左翼の話に耳を傾ける人間なんてほとんど存在しませんが、それでも、私たちは状況に深く関与しているのです。私にはそういう確信があります。

2017年9月5日火曜日

朝鮮人虐殺事件の教訓


集会報告集の編集作業がひと段落したので、ちょっと書きます。



 1923年の関東大震災の直後、内務省の指令によって、関東に暮らす6000人の朝鮮人が虐殺されました。このときの「朝鮮人狩り」は、陸軍を中心に新聞社や民間人を動員した大規模なものになりました。被害は朝鮮人だけでなく、社会主義者や労働組合活動家、日本人の行商人も殺されました。内務省が主導したこの作戦は、大正デモクラシーから昭和ファシズムへの転換点となり、その後の軍国主義体制を決定づけた、重大な国家犯罪です。

 この事件を振り返るとき、人は「デマに惑わされてはいけない」と言うのです。なにか教訓めいた言い方で、「デマに惑わされてはいけない」と。
 これは間違いです。こんな教訓めいた言葉を繰り返しても、それは歴史から学んだことにはならない。


 まず実践的な角度から考えてみましょう。
 政府(当時は内務省)がデマを流布させるとき、それは真実として流布させます。信頼できる機関による信頼できる情報として流布させるのです。その情報が嘘であったとわかるのは、ずっと後になってからのことです。人間狩りに加わった民間人は、デマに踊らされようとしたのではなく、真実に従おうとしたのです。したがって、「デマに惑わされてはいけない」という教訓はまったく意味がないし、かえってデマゴギーにたいする人々の耐性を弱めてしまうことになります。
 この事件から引き出すべき教訓は、「信頼できる機関の情報を鵜呑みにするな」です。デマゴギーは、「信頼できる機関の情報」として流布されるからです。情報が錯綜し、前後不覚になったとき、私たちは「信頼できる機関の情報」を信じてはいけないのです。
 「信頼できる機関」とは、1923年当時であれば内務省、現在では文部科学省です。文部科学省が、年間20ミリシーベルトの被曝線量であれば帰還できるだとか、1キロあたり100ベクレル未満の汚染なら食べても大丈夫だとか、真実らしいことを言い出したら、ぜったいに信じてはいけない。その情報が嘘であることがわかるのは、ずっと後になってからです。


 次に、この事件を振り返って、事後的にどう総括するかについて考えてみましょう。
 デマゴギーは、自然発生的なものではありません。震災は自然災害ですが、デマゴギーは自然発生ではありません。それは、ある機関が意図をもって組織的に取り組んだ計略なのです。だから、歴史を振り返る私たちは、「デマに惑わされてはいけない」というだけでは不充分です。災害の混乱に乗じてデマを流布させた機関と、それを可能にした政体に言及するべきです。陸軍が途方もない権力を掌握していったという意味で、朝鮮人虐殺事件は、226事件以上に重大な事件です。朝鮮人虐殺事件は、陸軍が犯した国家犯罪として書き残さなければならないのです。

 問題が深刻であるのは、この作戦が大量の民間人をまきこみ、軍民の共犯関係を築いたことです。現代風に言えば、「市民参加型行政」の形式で、人間狩りが行われたのです。
だまされて利用された民間人は、自分をだました人間を追及することができません。自分も手を汚しているわけですから。彼は、自分はだまされたのだと言うことはできても、誰にだまされたのかを言うことができない。この共犯関係が生み出すバイアスによって、彼らは「デマに惑わされてはいけない」という、まったく不充分な「教訓」に留まり続けるのです。日本の新聞社がこの念仏を繰り返しているのは、自らが虐殺に加担した事実を批判的に総括することができないからなのです。
 陸軍と共に人間狩りに加わった人間たちは、それ以降、軍のいいなりです。そうして事件が明るみになったあとも、その責任をなにか自然にみたてた「デマ」のせいにしてしまう。問題を正面から直視することができない。
 私がかねてから「市民参加型行政」という手法に反対してきたのは、こういうことがあるからです。行政と民間の協働は、主客を混同させ、事業に対する正当な評価をできなくさせるのです。

 現代で言えば、福島「復興」政策です。
この官民協働の大事業は、おびただしい流血をもたらした後、おそらく誰も責任をとろうとはしないのです。