2017年1月28日土曜日

「園くんを励ます会」



 東京で活動していた園良太くんが、大阪に移住したということで、先行移住者や大阪の活動家が集まって、飲み会をしました。
 大阪のなんば道頓堀にある居酒屋で、「園くんを励ます会」。大阪、和歌山、兵庫の「放射脳」移住者のみなさん、名古屋と京都から「名古屋共産主義研究会」、さらに「ラジオKY」の小島さんが参加して、「放射脳」トーク。最後は、園くんの健康を祈って、一本締めでしめました。

で、月1回ぐらいは集まって飲もうということになりました。


 来月も(たぶん)大阪に行きます。よろしく。

2017年1月13日金曜日

デマゴギーと「業界」


 このかんの放射能汚染問題は、おびただしい数のデマゴギーを流通させてきた。放射能の安全神話は、嘘やごまかしや印象操作を大量に投入し、あたかも日本中の人々が被曝被害を不問にしたかのようであった。
しかし、嘘は長続きしない。これから、誰が嘘をつき、誰が真実を言っていたか、審判がくだる。



 この6年間のデマゴギー状況を振り返って、ひとつわかったことがある。
 デマゴギーの温床は、「業界」である。

 社会学の用語では〈界〉である。さまざまな分野に〈界〉がある。
わかりやすい例をとると、報道には報道の〈界〉(業界)がある。〈界〉は、他の分野とは隔たった輪郭をもち、自律している。〈界〉は、内部では成員同士の競合関係があり、全体としては自律している。この〈界〉の自律性を保持する構造に、デマゴギーの温床がある。
 社会学者ピエール・ブルデューによれば、〈界〉の内部の競合関係は、「ババ抜き」や「椅子取りゲーム」に喩えられる。そして、ある〈界〉が自律している(閉じている)ということは、言い換えれば、〈界〉の構成員の関心事は第一に〈界〉内部の動向である、ということである。報道機関の一人一人の記者は、もちろん現実に起きている出来事に関心をもって(外部に関心を開いて)取材をするのだが、しかしそれ以上に、同業他社の記事を気にかけ、参照している。彼らは同業者の競合関係のなかで、お互いの仕事を参照しあい、相互に監視しあっている。
 例えば、ある事件を取材するか否かを決めるさいに重要な判断材料になるのは、その事件を他社が取材しているかどうかである。他社がこぞって取材しているのに、自社だけが取材しないと判断することはありえない。また、他社がどこも追っていない話題を、自社だけで取材するというのも、負担感が大きい。そうして、事件の重要性を判断することとは別に、取材の是非が決定していたりする。皆が関心を持っているからではない。自分だけ「ババ」をひくわけにはいかないからだ。この構造が「メディアスクラム」を生み出す。読者の関心や社会的な重要性を超えて、〈界〉の競合関係が暴走をはじめるのである。「メディアスクラム」は極端ではあるが例外的な現象ではなく、恒常的に働いている〈界〉の力学を示すものだ。全国紙の一面とその出来事の解釈について各社が横並びになることは、日常的にあることだ。
 ここで見るべきは、〈界〉の自律性の内側では、ひとりひとりの記者が自律性を失っている、ということだ。記者個人は、報道機関という〈界〉が自律的であることによって自分自身も自律的であるとみなしているが、実際には、〈界〉内部の競合関係によって個人の自律性を失っている。彼がどのような事実を調べどのように書いたかは、常に同業他社との競合関係の中で評価され、査定されている。この査定をクリアするために必要なのは、〈界〉から見て「ユニークである」ことと「ユニークすぎない」こととのバランスである。もしも彼が〈界〉にとって「ユニークすぎる」記事を書いてしまったら、〈界〉の成員は彼を「記者ではないべつのもの」と評価することになる。それは、競合関係の「椅子取りゲーム」のなかで椅子を失うということだ。だから、もしも彼がジャーナリストであり続けたいと思うなら、自分の関心や着想よりも、「報道業界」の関心や着想に配慮しなければならない。彼のことをジャーナリストとして承認するのは、自分でも読者でもなく、同業者たちだからである。彼は自分が何者であるかを自分自身で決めることができない。彼が何者であるかは〈界〉のゲームに委ねられ、そのことで彼は〈界〉に従属するのである。

 ブルデューの〈界〉概念は、一般的な概念である。ここでは「報道業界」を例にとったが、同じことは大学人にも言えるし、社会運動にも言える。それぞれに〈界〉があり、お互いに競合しつつ参照しあう「業界」というものがある。「業界」は成員を相互に承認しあい、そのことで、成員相互が監視しあう三すくみ四すくみの状態を作り出す。
 知識階層の多くが放射能汚染問題を理解しつつ、そのことを公然と表現できないでいるのは、この〈界〉の相互監視の力学が彼らに向けて働いているからだろう。彼は放射能問題を気にかけてはいるが、そのことよりもまず、自分が属している〈界〉のゲームを首尾よく切りぬけたいと考えている。自分だけが「ババ」をひいたり、自分だけが矢面に立ったりはしたくないのだろう。そうして知識階層の諸々の「業界」が三すくみになっているのを尻目に、デマゴギーが大手を振って歩いているというわけだ。

 この6年間、放射能汚染問題を公然と告発し、矢面にたって闘ってきたのは、主婦である。なぜなら主婦とは、「業界」に属さない単独者だからである。彼女(彼)は、2011年の事件が起きるずっと以前に、「業界」から足抜けしていた。あるいは、そもそも最初から「業界」と無縁であった。
 主婦は、〈界〉から自由である。この自由は両義的なものである。それは否定的な側面をとれば、あらゆる〈界〉から排除されている、「椅子とりゲーム」に参加できないアウトサイダーである、ということだ。肯定的な側面をとれば、どんな〈界〉のゲームにも従属することがない、自分が〈界〉に参画しているなどという幻想を持つことがない、ということである。そして現在のデマゴギー状況のなかでは、この自由の肯定的な力が発揮されている。排除されていること、被差別であることが、嘘や欺瞞を退ける力に転化しているわけだ。

 楽しい。考えるだけでわくわくする。
 そう。主婦は単独者であるが、同時に、多数者である。
 誰でも主婦になることができる。
 この境遇は特権的なものではなく、誰に対しても開かれている。



2017年1月1日日曜日

素敵な出会いを求めて



 東京電力事件から6年。今年2017年は、出会いの年になります。

 事件直後に日本政府が号令した「絆」キャンペーンは、ぶざまに破たんしました。福島現地に向かう「復興」ボランティアもいなくなりました。これから福島県の人口は、被曝死と県外移転者によって、加速度的に減少していきます。
 共同体の力を信じた蒙昧な分子は、ばつが悪そうに沈黙しています。この共同体信仰の解体は、福島県だけに生じているものではありません。汚染地帯となった首都圏でもそうだし、また、汚染されていない大阪でも、共同体主義が没落していきます。事件から5年間の第1フェイズでは、われわれ「放射脳」移住者の正しさが証明される結果になりました。

 共同体が解体したのち、私たちは出会いなおします。見知らぬ土地に避難した人々は、その土地で誰かと出会い、愛し合う。夫と離婚した母子避難者も、いずれは再婚します。このプロセスは不可避です。われわれ移住者は、日本社会のすべてに背を向けて深い孤独を選んだ者ですが、しかし5年も経てば、孤独であることにも飽きてきます。いろいろな人と出会い、魅かれあうこともあるのです。

 これから数年間、東電事件後の第2フェイズは、二つの異質な共同性が並存します。
没落していく古い共同体の残滓と、新たに形成された共同性とが、はっきりとコントラストをもってあらわれてきます。東日本から逃散した「放射脳」は数万人ですが、今後さらに膨張していきます。彼らは新しい思想とハビトゥスを生み出す前衛的な役割を担います。
 ものの見方、話しかた、聞きかた、表現の様式が変わります。社会に背を向けた孤独な者たちが、彼らにしか為しえないような新しい文化をつくりだすのです。

 おもしろくなってきました。
 今年はきっといい年になります。