2014年7月31日木曜日

カンパ募集


先月の一ヶ月間、このブログの閲覧数はちょうど1万ページビューでした。

人数にして1000人~2000人ぐらいでしょうか。

にしては、カンパの振込額が少ないのです。

金額はいいませんが、びっくりするぐらい。

ほとんどタダ読み状態です。




悲しいよ先生は。

みんなは、商品みたいに値札がついていないとお金が出せないぐらい
消費者然としちゃってるんですか。

カンパ制にはびた一文支払わないという、そういうルールなんですか。

ちょっとみんな考えてほしい。


  

2014年7月25日金曜日

渋谷要氏の革命的祖国敗北主義論



 京都の友人が、フェイスブックで放射能汚染問題について書いていたので、かってに転載します。
「日帝」とか「人民」とか、左翼の機関紙みたいで嫌だという人もいるかもしれませんが、私は好きです。
左翼の政治論文はこうでなくっちゃ。


以下、本文です。

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試論・放射能被ばくとの闘いと日帝の祖国防衛主義
 ――革命的祖国敗北主義と抵抗権で闘おう!

渋谷要

※本レポートの注意点(必ず読んでください)。

本レポートは、問題意識としての論脈を鮮明にするために書かれたものであり、論脈だけで書かれている。したがって、どうしても説明する必要があった<2>の当該論述部分以外、論中の各事項に関する説明は、意識的に省略したものとなっている。論文にするときは、これらの各事項は、その内容を説明しなくてはならないものとしてある。

               <Ⅰ>

日帝国家権力のこの間の福島原発事故に対する対応の基本になっているものは、放射能汚染の賠償額の軽減政策・管理費用の軽減政策であり、そのために地域の汚染調査・住民の健康診断を不徹底にしてしまうことであり、福島事故原発労働者の被ばく線量管理などに関する諸問題、そして除染作業での被ばく問題をはじめ(これらの労働問題では「被ばく労働を考えるネットワーク」のHPなどを参照のこと)、放射能をまき散らし、あるいは移動させるだけの「除染」(もちろん、そのすべてが不要だとは、言えない)などとして、それは原発再稼動の前提をなす、放射能汚染の後景化・隠蔽政策として展開されている。そうした日帝の原発事故対応は、日帝権力者たちと日本経団連などのブルジョアジーたちが、統治技術として自分の国で利害関係をつくりあげてきた、その国家の様々な利害関係を壊さず維持し拡大してゆくという階級的利益をまもるものとして意味をもつところの、帝国主義国の「祖国防衛主義」以外の何ものでもない、ということだ。地方自治体においても、その地域における地域権力の利害関係が存在する。

例えば、福島での甲状腺がんの多発化は、多発ではなく、また放射能汚染とは関係ないなどというたぐいの原発推進派たちの対応が、それだ。そうして、早く以前から住んでいた住居地に帰還させようとし、それによって、住民の移住・避難の権利は、ないがしろにされてきたのである。まさに統治技術としての「人口政策」の帝国主義的コントロールということだ。

これに対し第一に、放射能汚染の国家責任、賠償、移住・避難の権利の徹底化、調査・検査、汚染物資の徹底管理そして、いまも続く事故の完全な情報公開などをもとめ、それが国家財政の危機を招くようであっても、徹底的に行なわれることを求める立場が、帝国主義国における祖国敗北主義の立場である。

そして第二に、それらを実行させてゆくものとして、あるいは、それらの政策を現国家体制が行なわない以上、それらの政策を実現するために、現政権を打倒するため、とられる自然法上の権利として、人民の抵抗権が、措定されるべきだというのが、本論の主張である。
まさにグローバルな放射能汚染の進行と展開のなかで、人民は「生命と財産」を危機に落とし込められ、人権を蹂躙されつづけている。かかる人民の平和的生存権(平和の内に生きる権利)を破壊する政権に対しては、人民はこれを打倒するため、平和的生存権が確保される状態を取り戻すために、抵抗権を行使することが必要である。

(注:さらに、もとより、各地、原発建設においては、日帝権力者たちは、反対運動に対して、警察機動隊を大量に投入し、暴力で反対派を弾圧した。そして、建設現地で、反対の声を上げている人たちを村八分にして、抑圧してきた。こうしたあり方には、それ自身、国家責任がとわれなければならない。まさに、国家暴力で原発は建設されてきたのであり、そうしたことも、人民の抵抗権の発動を正当なものとする権力側の不当性の根拠を立証するひとつの根拠をなすものと言えるだろう)。

<Ⅱ>

さらに、帝国主義国の祖国防衛主義として行われていることを見てゆくならば、以下のような重要な問題がある。

例えば「20ミリ問題」とは、もともと、米帝国主義の核戦略のための機関でしかないICRPが原子力事故からの「復興期」における被ばく限度として「年間1ミリ~20ミリシーベルト」と定めている、その上限の「20ミリ」を日帝が、基準にし、賠償削減政策を展開しようとしてきたという問題である。それは又、内部被曝を計算に入れず、内部被曝のリスクはわからないなどという、ふざけた主張を、基準にしてきたICRPの問題を、まったく隠蔽することから、立てられているものにほかならない。
さらに、食品の基準値でも、たとえば、野菜の基準値では、セシウム137の値は、チェルノブイリ事故原発に向き合っているウクライナで、1㎏当たり40ベクレルに対して日本では1キログラムあたり100ベクレルと、2倍以上の緩さだ。「今まで通りで、生産できます」としているわけである。ゼロベクレル派から見れば、これ自体が全くナンセンスな人民虐殺政策である。

そうしてまで日帝権力者たちは、賠償・保障低減・削減政策、汚染管理費低減・削減政策をとり、従来からの市場経済の利害関係を一つの秩序として維持しようとしているのだ。
さらに全国的に大問題となったガレキ処理の問題以外でも、例えば、汚泥の問題が存在している。
これは一つの事例にすぎないが、例えば、広瀬隆『第二のフクシマ、日本滅亡』(朝日選書)では次のようなデータが記述されているのだ。
「(2011年)6月16日、全国各地の上下水処理施設で汚泥から放射性物質が検出されて深刻になってきたため、政府の原子力災害対策本部は、放射性セシウムの濃度が1キログラムあたり(以下すべて同じ単位で示す)8000ベクレル以下であれば、跡地を住宅に利用しない場合に限って汚泥を埋め立てることができるなどの方針を公表し、福島など一三都県と八政令市に通知した。また、8000ベクレルを超え、10万ベクレル以下は濃度に応じて住宅地から距離を取れば、通常の汚泥を埋め立て処分する管理型処分場の敷地に仮置きができるとした。
さらに、6月23日の環境省の決定により、放射性セシウム濃度(セシウム134と137の合計値)が8000ベクレル以下の焼却灰は『一般廃棄物』扱いで管理型処分場での埋め立て処分をしてよいことになった。さらに環境省は、低レベル放射性廃棄物の埋設処分基準を緩和して、8000ベクレル以下を10万ベクレル以下に引き下げてしまい、放射線を遮断できる施設での保管を認めてしまった。
おいおい待てよ。原子力プラントから発生する廃棄物の場合は、放射性セシウムについては100ベクレルを超えれば、厳重な管理をするべき『放射性廃棄物』になるのだぞ。環境省は、なぜその80倍もの超危険物を、一般ゴミと同じように埋め立て可能とするのか。なぜ汚染した汚泥を低レベル放射性廃棄物扱いとして、ドラム缶に入れて保管しないのか。この発生地は、無主物どころか、福島第一原発なのだから、その敷地に戻すほかに、方法はないだろう。これが『廃棄物の発生者責任』という産業界の常識だ」。
「6月24日(2011年)、農林水産省は『放射性セシウムが200ベクレル以下ならば、この汚泥を乾燥汚泥や汚泥発酵肥料などの原料としてよい』というトンデモナイ決定を下した……放射性廃棄物が、いよいよ発酵肥料に化けるのか」という具合だ。
「2012年には、汚染砕石のコンクリートを使った福島県内の新築マンションなどから高線量の放射能が検出され、すでに数百ヶ所の工事に汚染砕石を使用済みという実態が明るみに出た」。「首都圏では、雨で流され、除染で流した水が、すべて海に流れていることが、本当に深刻である」。

こうした立体的な放射能汚染模様は、一度作られてしまうと、それが放射性物質の滞留・拡散・移動・濃縮という「乱雑」な動き、そのままに、人間生態系を動き回り、半減期などに象徴されるように、自分で消滅するまで、消えてくれないのだ。

ここで問題なのは、これらが、日帝権力者たちの恣意的な汚染賠償削減政策、汚染管理費削減政策として展開されているところの、反人民的犯罪行為以外ではないということなのである。

<Ⅲ>

まさに、現在も、福島事故原発からは、大量の放射性物質が放出されている。全国的な放射性物質の放出の影響はむしろ、広がっており、例えば関東平野の汚染は重大である。福島だけが汚染されているのではない。
だがしかし、福島の「復興」政策では、福島の農産物、お祭り、スポーツ行事など、がおこなわれ、福島に特化したものとなっており、それらにおいては、放射能汚染は軽微なものとしてあつかわれるという、欺瞞的な政策として展開されている。
 また例えば、福島における昆虫などの小動物に放射能汚染による生体破壊が進行していること、その人間への影響などは、タブーとされるような空気が、その「復興」政策では蔓延しているだろう。
そして「復興」の名によって、福島現地の放射能汚染をいう事はタブーとされ、もちろん、全国的に汚染が広がっていることは問題外のことになる以外ない。まさにこのような日帝による日帝の「復興」政策なるものは、受忍被ばくを強要するものに他ならない。

<Ⅳ>

このような汚染と闘うには、予防原則の徹底化が必要である。が、それは、これまでも述べてきたように、天文学的な国家財政の支出を前提とするものだ。予防原則とは、ある汚染物質と考えられる対象に対して、そのリスクについて、確証がないとき、それが安全であるという確証が得られるまで、それを使った工程を排除するというものである。ここでは、放射性物質の汚染が、どれだけ広がり、どれだけの影響を人間生態系に、この社会と地球にあたえているか、また、今後、どのように展開してゆくかという事を調べることであり、徹底した検査などを基本とし、移住・避難などを支援する、まさに、医学的にも、生活的にも、必要な総てのことを、それが必要なすべての人々に提供してゆくということである。

その財政支出は、他の財政を圧迫するし、ひいては、国家財政を危機に陥れるかもしれない。上限はない。東電はもちろん破産する。国家財政の危機がやってくるからやめろと、いうのが、祖国防衛主義者たちだ。
 しかし、その場合、予防原則の徹底化の立場にとっては、日帝国家は破産・崩壊し、反核政府を樹立することが必要となるだけだ。ここで問題となるのは、そうした革命的情勢を創出するために、労働者人民の生活圏に、日本帝国主義の放射能汚染責任という国家責任を追及する社会運動をつくりだしてゆくことが、問われるということである。

つまり、予防原則の徹底化の立場は、帝国主義の祖国防衛主義と対立し、日本帝国主義の祖国敗北主義をもってのみ、予防原則の徹底化は勝ち取れるという立場になる以外ない。そして、その武器が抵抗権にほかならないのである。
受忍被ばくを一つの前提とした帝国主義祖国防衛主義の立場に立つのか、それとも、日帝崩壊・祖国敗北主義の反帝ラジカリズムの立場、放射能汚染の加害者である日帝権力者に対する人民の抵抗権の立場に立つのか、そのことがまず前提として問われていると思うのだが、どうだろうか。(2014・7・20)





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いいですね。声に出して読むと、空気が入ります。

空気が入ったついでにコメントを書きます。

日本帝国主義権力の祖国防衛主義の側に立つのか、それとも、人民が平和に生きるための祖国敗北主義の立場に立つのか。ここにおいて問題となるのは、誰がこの闘いの主体となるのかである。既成「左翼」政党、労働組合、生活協同組合、大学と出版界、そのた諸戦線に深くしみついた帝国主義権力との妥協的態度を、点検し、刷新し、必要があればそれを解体することである。それぞれの戦線において、権力とのなれあいを続けるのか、それとも、人民とともに闘うのかが、問われている。
どうだろうか。






2014年7月24日木曜日

いわゆる「福島差別」について



 来月の8月2日に東京に行く。フリーター全般労働組合の招聘で、放射能汚染問題についてのディスカッションに参加する。
 伝え聞くところでは、私が登壇することについて、一部で異議が出ているようだ。その内容は断片的にしかわからないが、『インパクション』誌に書いた論考『シジフォスたちの陶酔』について、「矢部論文は福島差別を助長する内容だ」という声が出ているらしい。
 こうした異議はこの3年間ずっとくすぶっていたようだが、ぜひ、つぶやきのような断片的なものではなく、ひとつの論文のかたちで提出してほしい。言いたいことはしっかり言ったほうがいい。ぐずったり駄々をこねたりするような甘えた態度では、自分が恥ずかしいだろう。「矢部史郎は差別者だ」と、はっきりと論文にして発表するべきだ。



 さて、当日のディスカッションのために、私の側から「差別」について書いておこうと思う。

 まず、放射線から身を守ること、被曝を避けることは、差別ではない。被曝を強要したり受忍させる行為こそが、差別である。だから、いま全国で行われている放射線防護活動は、被曝強要の差別に抵抗する反差別運動であると言うことができる。我々はそういう言い方をすることはないが、反被曝の運動は反差別運動であると言うことができる。

 人々に被曝を強要しているのは政府である。しかし、市民の側でもそれに抵抗するか抵抗しないかで態度が分かれる。被曝に抵抗する者(防護派)が日常の実践のなかで直接に対峙するのは、遠くにある政府ではなく、身近な人間である。被曝受忍政策に抵抗しない(または翼賛する)自治体、教育機関、流通業者、観光業者、職場の上司、同僚、友人、家族と親戚である。彼らは放射性物質に対する無知や軽視によって、自分と他人を危険にさらしている。ここで、防護派とそうでない人々との対立が生まれる。

 我々防護派の言動が「差別だ」と非難されるのは、この対立に由来していると思われる。そもそもこうした場面で「差別だ」と口にする者が、文字通り差別について考えているのかというと、ひじょうに疑わしいからである。ここで口にされる「差別だ」という言葉を、文脈にのせて正しく言い換えるなら、「対立をつくるな」とか「和を乱すな」という意味になるのだろう。

 我々としても、無用な対立をのぞんでいるわけではない。
しかし、政府と福島県政が「復興」政策を強行し、放射性物質の二次拡散をすすめてしまっている以上、対立しないわけにはいかないのだ。福島県知事が汚染被害に目をつぶるのだとして、我々がそれに付き従って汚染を受けいれる理由はない。ほんらい政府と東京電力によって支払われるべき損害賠償が、現実に支払われていないからといって、我々一般市民がその肩代わりをするわけにはいかない。そんな要求は筋違いである。「東京都民は福島第一原発の電気を使ってきたじゃないか」というかもしれない。それはヤクザのインネンというものだ。原子力政策を決定した者たちがなんの責任も取らず、謝罪もせず、のうのうと暮らしているというのに、どうして当時生まれてもいなかった者たちが汚染食品を食べなければならないのか。それこそ差別である。そこはきっちりと退け、対立するべきところなのである。

 問題をなあなあで済ましてはいけない。
 放射線防護活動は、社会の対立をあぶり出し、和を乱す。そこでは、ひとりひとりの態度が問われ、試される。このことが、社会を恐慌状態に陥らせている。そして、反差別の闘いも、そうなのだ。反差別の思想とは、みんなが仲良く同調して「和の精神」でいきましょうということではない。そうではなく、みせかけの「和」にひそんでいる嘘を告発し、対立を顕在化させることだ。
 「日本中が一つになって」、「福島のために」、「絆」、そんなものは反差別の思想とはまったく関係がない。そんな聞き心地のよい国民主義の迷信は、問題の解決に少しもつながらない。実際にどうだろう。「絆」という美辞麗句を繰り返して、福島の何が解決したのか。住民は遺棄されているだけではないのか。むしろこう言ってもいい。人々は福島とその周辺県が被っている差別を直視しないために、その差別と闘わないために、「絆」の唱和に逃げたのだ、と。

2014年7月22日火曜日

近況報告と告知




712
 前瀬くんが印刷会社の編集の仕事を決めた。二人で祝い酒をしようということで、新栄で飲み歩く。酔っ払った前瀬くんが、ドゥルーズ/ガタリの有名な一節を引用して、言う。「女になること、動物になること、名古屋人になること」。なるほどね。「放射脳」になること、そしてさらに、名古屋人になること。この街はマイナーなものへと生成する容器だ。度胸と忍耐力が試される。


718
 RLLの河辺くんが、名古屋に来て2泊していった。彼は年内の東京脱出をめざして、西日本のいくつかの街をまわってきたらしい。そして旅の最後に、名古屋の街を下見していった。
 2016年になるまえに、すでに東京の文化シーンは解体している。足の速い者はすでに東京を去った。新宿も、高円寺も、過去の街になったのだ。


720
 毎月開催されている「三河アナキストの会」の飲み会に参加。今回は日進市の放射線防護派2名が飛び入り参加して、総勢8名の飲み会になった。はじめは4名でほそぼそと始めた会だったが、徐々に移住者が増えてにぎやかになってきた。今年はさらに人が増えていくだろう。


722
 来月、東京で、労働組合のパネルディスカッションに出る。
以下、告知文が送られてきたので転載。

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/////// トークセッション3  ////////////////////////////////////////

「放射能は人を選んで降り注ぐ」-都市貧困層はいかに自身となかまを原子力災害から守るのか

日時 8月2日 18時から
場所 フリーター労組会議室
資料代 500円(組合員無料)
【内容】2011312日以降、原子力災害からの避難をよびかけ名古屋で活動する矢部史郎さんを迎え、原子力災害の現状と災害から自身となかまたちを守るための活動についてトークします。


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 トークセッション3  ////////////////////////////////////////以下呼びかけ文
被害をいうことが強い非難の対象にされています。被害を疑うこと自体、「風評被害」を招くことであり黙るべきだというのです。
これでは高線量地域から逃げる権利も、放射性物質を吸入せず、放射線を浴びずに暮らす権利も、まったく保障されない。そしてこの被害を深刻に受けるのは、安定した所得がなく、食を自律的に選択することも難しく、医療からもはじかれた、私たちフリーター層を含む貧困者です。
放射能災害は何も終わっていません。福島原発での度重なる汚染水漏れ、高線量下での作業を強いられる収束作業員への被ばくのみを言っているのではありません。現在でも、法律的には1mSv/年が公衆被ばくの上限です。ところがそれを超える地域に人々は住み続けています。労働安全衛生法が「管理区域」に指定し、必要あるもの以外を立ち入らせず、18歳未満を就労させないことを事業者の義務とする線量の地域ですら、人は生活し就労しています。
被災地が日本の経済開発の周縁部と位置付けられた東北であったこと、収入を考えれば、安全性を第一に食物や水を選択できず、ファストフードやコンビニで飯を食わなければならないこと、これらのことが何を意味するのかを私たちは真剣に考えなければなりません。
放射能は人を選んで降り注ぎます。

2011
年3月以前も、そしてそれ以降も、放射能は貧困者の上にこそ強く降り注いできたことを私たちは忘れるわけにはいきません。原子力災害は貧困者に向けられているのです。
なのに被害の「科学的根拠がない」ことを理由に、低線量被ばくまたは内部被ばくの被害の訴えは切り捨てられ、「復興」イメージの維持のために、災害は意図的な忘却の中に置かれています。ホットスポットでの埃の吸入、放射性物質が含まれる食べ物や飲み物の摂取、これらが東日本に暮らす私たちの現実であることには変わりないのにです。
被害を語る人々にはこれまでも「放射脳」「似非科学」なる悪罵が投げつけられてきました。避難の権利を求める人々にも政府機関をはじめとして冷笑的な態度が投げつけられてきました。おそらくこれからも、その状況は大きく変わることなどないでしょう。その一方で冷徹に進められているのは、いまだ実証データに乏しい「低線量被ばく」「内部被ばく」のデータ収集です。
あたかも未曽有の人体実験の被験者として、私たちは位置づけられています。私たちは私たち自身を、この災害と人体実験からどのように守るのかを考えなければなりません。誰も守ってくれることなどない。だれも私たちを守りなどしないのですから。
原子力災害の中へ遺棄される貧困者は、どのように自分となかまを守ればよいのか。考えてみたいと思っています。

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 この会を主催するフリーター全般労働組合は、2002年に結成され、当時の労働運動に一石を投じた組合。フリーター全般労働組合は、共産党系の首都圏青年ユニオンとともに、新自由主義政策下の非正規労働問題を告発していった。いわば、青年労働者運動のオピニオンリーダー的存在と言えるだろう。

 この3年間、東京の左翼は階級的視点を失ってきた。福島第一原発の事件は、社会運動を愛国主義的に、または、社会民主主義的にしてしまい、汚染問題の階級的性格を充分に論じてこなかった。労働組合は、組合員の健康調査を独自に行うことなく、厚労省の「安全」見解を追認してきたのである。
 しかしこれから、フリーター全般労働組合が沈黙をやぶる。放射能汚染問題から、資本と労働との敵対性をあぶり出す。この問題提起は、労働運動の思想が試されるものになるだろう。
 







2014年7月18日金曜日

bcxxx、かっこわるいなあ


どうでもいいことだが、「男組」の暴処法検挙に関して、bcxxxという奴が逃げをうっていた。
ツイッターで。
おれは関係ねーよ的な。


これが噂の「ヘタレサヨク」というやつか。


まあ、新人にはありがちなことだが、ここまでみっともないものははじめてだ。
なにもツイートしなくてもいいのにな。

 

2014年7月17日木曜日

抗議声明



 大阪府警に抗議する共同声明


 2014716日、大阪府警は、市民グループ「男組」の関係者8名を「暴力行為等処罰に関する法律」(以下、「暴処法」と略す)違反の容疑で逮捕した。
 容疑となっているのは、昨年10月にヘイトスピーチを行おうとデモに向かっている者を「男組」が取り囲み、ヘイトスピーチをやめるよう働きかけた行為である。ここには暴力行為はなく、「男組」側も暴力行為に発展しないよう慎重に働きかけを行っている。
 今回の大阪府警の判断は、市民が討議する権利にたいして不当に介入するものであり、断じて許すことができない。
 とくに今回問題となっているのは、人権を著しく毀損するヘイトスピーチの是非である。ヘイトスピーチを行う者に対して、それをやめるよう働きかけるのは、良識ある市民の当然のつとめである。「男組」のおこなった行為は、市民社会の健全さを示すものであって、警察が介入するべきものではない。「男組」のおこなった行為が「暴処法」で罰せられるということになれば、人々の良心は萎縮し、見て見ぬふりが横行し、無責任な暴言がまかりとおることになってしまうだろう。
 大阪府警は、逮捕した8名を釈放せよ。警察が介入する事案ではない。
 


 矢部史郎(蕨市事件元被告)
 CHE★gewalt(ANTIFA★黒い彗星)




2014年7月15日火曜日

ビギナー向けに



 最近、このブログのアクセス数が多くなっている。
おそらく、矢部史郎を知らない人や、矢部史郎という名前は知っていたけどこれまで読めなかったという人たちが、このブログにアクセスしているのだと思う。

 このブログは、2011年2月までは海賊史研究の報告などを書いていたが、2011年3月以降は放射能汚染問題について書いてきた。「3・11」までは東京で、「3・12」以後は名古屋に移転して、そのときどきに考えたことを書いた。ブログのタイトルも『海賊共産主義へ』から『原子力都市と海賊』に変更した。ちなみに「原子力都市」とは、原発が立地する都市のことではなく、工業化時代の次にあらわれる「原子力の時代」の都市のことである。

 このブログの中から、ビギナーに向けて、私の主張が要約されている文章をピックアップした。「たちよみ」とあるのは、書籍や雑誌に掲載されているために全文を見せることができないものだ。関心を持った人は、書籍を購入するか図書館で借りるかしてほしい。











2014年7月8日火曜日

運動の「アンダーコントロール」




 首都圏反原発連合(以下、反原連と略す)の一部分子が、私を挑発してきた。共産党の木下ちがやと、それに随伴している野間易通である。いま反原連について書くべきことはないのだが、ある種のSOS信号をキャッチしたのだと考えて、建設的な提言をしてみようと思う。



 反原連の一部分子は、その行動方針をめぐって、多くの人々と対立してきたように見える。しかしその対立は表面的なものだ。
 真に問題であったのは、ABかという方針の選択ではなく、彼らの言う「方針」なるものが、それじたい粉飾であったということだ。
官邸前の行動に、全体の方針などと言えるものはなかった。方針をたてて統制をとろうとしても、現実にはまったく不可能だったはずだ。あれだけの規模の大衆行動である。成り行きまかせにならざるをえない。だから官邸前行動は(きびしい言い方をすれば)、ただ警察の規制に押し込まれただけに終わった。そのこと自体は良いも悪いもない。しょうがないことだ。ただしここで共産党の木下らが間違えたのは、警察に圧迫され押し込まれたにすぎないことを、自らそのように方針化したのだと粉飾したことである。本当は状況に流されただけなのに、自らの方針でそうしたのだと偽ってしまった。ようするに見栄を張ったのだ。

 反原連と同時進行していた「レイシストしばき隊」もそうだ。まったく統制がとれていない。それは私はいいと思う。みんなそれぞれのやりかたで言いたいことをぶちまければいい。ただ、統制がないことを、まるであるかのように見せかけるのはいけない。仕切れていないのに、まるで仕切っているかのように言うのはまちがいだ。そういう見栄を張ると、話がこじれてしまう。

 共産党・木下と野間易通のツイッターをみると、自己正当化の弁明が目立つ。それは、首相がオリンピックを誘致するスピーチで「アンダーコントロール」と言った姿とダブる。「運動はコントロールされています」と繰り返しているかのようだ。そういうやり方は良くない。もっと正直に、もうぐちゃぐちゃですどうしたらいいかわかりません、と言うべきだ。そう言ったからといって怒る人はいない。




 この三年間、多くの人々が手探りで闘い、それぞれの挫折を味わった。私もそうだ。もっとこうすればよかったとか、あのときもっと積極的に働きかければよかったとか、悔いが残ることばかりである。そうした人々を前に、「大丈夫、運動はコントロールされています」などとどうして言えるだろうか。人々が求めているのは、そんな強がりの言葉ではない。もっと正直な話だ。自分たちができなかったことを悔やみ、無力さにうろたえ、その事実を確認することから、もういちど議論をはじめることだ。

2014年7月4日金曜日

人間を直立させたのは人間自身




 人間はなぜ直立歩行をするようになったのか。
 この問いに、人間の生活環境の変化から説明しようとする考え方がある。たとえば、木の上の生活から平原の生活に移行したからだ、とか、水辺に暮らすようになったからだ、とか。人間の生活環境が変化したから身体が変化したのだ、という考え方だ。
 こうした説が説得力を欠いているのは、人間という種の最大の特徴、人間が環境に適応しない生物であるという特徴を見落としているからである。人間はジャングルだろうが平原だろうが直立して生きている。寒冷地帯の雪原から赤道直下のジャングルまで、どんな場所でも人間が生きていて、それらはまったく異なる環境に暮らしているにもかかわらず、サイズも能力もほとんど変わらない。人間はどのような環境にたいしても適合的でなく、環境から疎外されていて、だから、地球上の多種多様な環境に住まうことができたのである。

 人間を直立させたのは、環境ではない。ではなにが人間を直立させたのか。
答えは明白で、人間の祖先たちが性選択を繰り返した結果である。男たちが直立する女を選び、女たちが直立する男を積極的に受け入れた。何代にもわたってそれを繰り返し、人間は直立二足歩行を獲得したのだ。
 直立する個体は、はじめは異形だったかもしれない。四足で駆けたり登ったりした方が速いのに、わざわざ二足で歩く者があらわれた。動きのおかしい、へんなやつである。はじめはモテなかったと思う。動物としては明らかに劣っているのだから。しかし、あるときから二足歩行の個体がモテるようになる。運動能力が劣るにもかかわらず、二足がモテる現象。二足歩行ブーム。なにがあったのか。
 私が唱えている仮説は、「おみやげ説」である。二足歩行の個体は、運動能力が劣るかわりに、両手を使ってモノを運搬する能力を獲得した。二足歩行の男は、片手に自分が食べる食料を持ち、もう片方の手におみやげを持ってやってきた。そして誰かに与えたのだ。これは、モテる。二足歩行おみやげ男子の誕生。おみやげ個体が増えていくにしたがって、採集行為は社会化され、群れ全体に経済的な安定がうまれる。病気で動けない個体や、産後で疲弊している個体が、食べられるようになる。
 もうひとつの有力な仮説は、「だっこ説」である。二足歩行の女は、両手で子供を抱いた。四足歩行の個体が子供を片手でぶらさげて歩くのとは大違いである。つねに両手をつかって、丁寧に乳児を抱く個体。その姿に男たちは深い衝撃をおぼえただろう。これしかない、と思ったはずだ。

 人間を直立させたのは人間自身である。直立二足歩行の獲得とは、人間が環境に適応しようとした結果ではなく、その反対に、環境に背を向けて不適応を志向した結果である。人間は環境に愛されることをのぞむのではなく、どんな過酷な環境にあっても人間が自律的・自足的に愛しあう生き方を選んだのである。
 はじめはジャングルで、木に登ることのできない不適応者が生まれた。動物として弱く、環境になじめない個体。彼らは生の新しい様式を発明しなくてはならなかった。もっとも弱く生き難い者たちが、人間という種の前衛になったのだ。
 人間の体毛が徐々に薄くなっていったことも、同様のプロセスがあったと考えられる。全身が禿げていて傷つきやすい個体が生まれた。成人になっても赤ん坊のように禿げていて、むきだしの肌。彼(彼女)はいつも傷だらけで、強い痛みを感じながら生きなくてはならなかった。当時の男と女は、そんな傷だらけの者を選んでいった。なぜなら、傷を負う者はつねに慎重で、思慮深く、なにより愛を知っているからだ。